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レポート  作者: 篠森京夜
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「そろそろ受験対策で忙しそうね」

 チィムニは教室の中を見回して言った。

「みんな高校に入った頃からしているわ。そうじゃなかったのは貴女くらいよ」

「それもそうね」

 私に目を向けて可笑しそうに笑う。

 チィムニは不思議な女性だった。感情的なようでいて非常に客観的、誰にでも心を開いているようでさっぱり本心がつかめない。

 私はその不可解さに興味を持ち、彼女のすべてに客観的で突き放しているような態度のおかげで全くストレスを感じることなく付き合うことができた。だが、彼女のつかみ所のなさは多くの生徒の反感を買う原因になったし、彼女は彼女で他人に合わせる気は全くなかった。多くの生徒は最大限多くの他人に自分を合わせようとしていたが、彼女は自分についてこられる人間とだけいられればいいと思っていたようだ。

 実際、彼女が他人に合わせることは難しかっただろう。人間にはそれぞれ器というものがある。彼女はそれが非常に大きい人間だった。象が鼠の真似をすることほど馬鹿げた話もないだろう。

「それにしても、アヤナが理系の大学に行くとは思わなかったわ」

「私に文学や歴史が研究できると思う?」

「まあね、貴女の現国の勉強法は教科書の解釈の丸覚えだもんね。でも教科書の解釈なんて本当に文学を理解しているとは言えないわ」

「だから私は理系に行くの。わかった?」

「そうやって話を短くまとめるのはやめなよ。会話ができないじゃない」

 チィムニが苦笑する。本当に彼女は不思議な人間だと思う。普通の人間ならここまで突き放したような口調で話をしたら気を悪くするものだ。

 ちなみに彼女は私とは対照的に長々と自分の考えを書き殴る癖があり、国語の試験はいつも赤点に近かった。これは彼女の文学への豊富な知識と興味の裏返しで、彼女にとって国語は美術以外で唯一本気になれる教科だったからだ。

 そんな彼女が、かつて一度だけ極めて簡潔な解答をしたことがある。梶井基次郎の『檸檬』に対する感想だ。


『自意識過剰! ソープランドに行け!』

 これで彼女は初めて赤点を取った。


「でもさあ、理系って言っても色々あるよね。アヤナは何処に行くの?」

「詳しくは決めてないわ。家の方は医学部に行ったら喜ぶんじゃない?」

 実際、私は人体を解剖できる医学部に少し興味を持っていた。人間の観察者としてこれほど相応しい分野もないだろう。

「ダメよ、ダメ! 医学部なんて古臭いわ」

「古臭い?」

「そうよ。あそこはかのギリシャから続く西洋合理主義の根城なんだから」

「私は別に哲学を学びに大学に行くんじゃないわ」

 私は彼女の突飛な発想に辟易した。いつものことながら、こんな時は正直どうして彼女と会話をしなければならないのかと疑問に思ったりもする。私の思いを知ってか知らずか、彼女は妙に真剣な口調で話し続けた。

「哲学ってのは大切なのよ? それこそいかに人間が発展し、進むかを示すものなんだから! だから哲学はあらゆる分野の学問に及ぶし、すべての学問は哲学を内包しているのよ。ちなみに医学部の哲学はこうよ。すべての生物を分解し、その生命維持システムの全貌を把握せよ。そしてそのシステムがどうすれば効率良く機能するかを調べ、どうすれば長持ちするか考えろ!」

 彼女は言った。

「西洋人はこれを大昔からやってきたから、合理主義と資本主義を生み出したの。医学と資本主義は似ているわ。どちらも人の精神のことを考えないって点と、好き勝手に人間を痛めつけてもいいって考えてる点でね」

「私も人のことを考えないわ」

「ああもう、またそうやって人の話の腰を折る!」

 彼女の話には独特の方向性がある。論理の展開自体は実に簡潔で的外れでもないのだが、奇妙なものを論拠として引っ張り出してくるのだ。

 生物の説明に物理の法則を用い、音楽を味覚で表現する。その組合せが彼女の中でどのように成り立っているのかは疑問だ。

「だからね、私が言いたいのは医学に新しい哲学を創り出せる力はないってことよ。多分そう遠くない未来、医学は色々なことができるようになるわ。ロバの頭を人間の体にくっつけたり、硝子の心臓を体に埋め込んだりね。でもそれは今までの哲学の延長線上でしかない。どうにかして人間の体を長持ちさせようって考えからは抜け出せない」

「じゃあ、どの学部がいいの? その、貴女の言う新しい哲学を創り出せるのは?」

 チィムニはニッと笑った。

「私が考えるには生物学ね。これは今、急速に発達している学問だからね。物理もスケールが大きくていいけど、あれはもう普通の人間が理解できる範囲を超えてるわ。それに物理ってのは、例えるなら世界っていうチェス板の構造を調べる学問よ。私はその上で行われるゲームの中身の方に興味があるの。アヤナもそう思わない?」

 私は答えなかった。

「生物の行動の仕組みは? 何故、そうなっているの? それにはどんな意味があるの? これは哲学の最重要問題と同じことよ。シンプルだけど奥が深いわ。それにどんなに難しくても、一般人の理解の範囲内にギリギリ踏み止まっていられる。それはゲームのルールに近いからね」

 彼女は続けた。

「そして同じ生物として、生物学の哲学は簡単に人間に当てはめることができる。これはかなり大きな利点よ。もっとも、簡単すぎて誤解する人も多いでしょうけどね」

 彼女は芝居がかった身ぶりで両腕を広げた。

「今、必要なのは全く新しい論理と哲学よ。ものが溢れて生きる方向が見えなくなった時代にこそ必要な哲学……別に無理して生きていかなくても関係ない時代だからこそ必要な哲学よ。我々は何処から来たのか? 何を為すべきか? そして何処に行くのか?」


「そして、生きるとは何か? これこそ全ての人間が追い求めるべき問題なのよ」

 

「私に哲学は必要ないわ」

 その頃の私は目の前の問題に対処することに精一杯で、彼女の話には対処できていなかった。実際の話、彼女の視線は私より遥かに遠くのものを見ていたのだろう。目の前の問題に気を配っているだけでは生きていけない時代がやってくる。彼女はそのことに気づいていた。

 それは個人個人が自分自身の生き方を見つめ直さねばならなくなる時であり、新たな道を自分で決めなければならない時だ。その時は哲学こそ人間に必要なものとなるだろう。後に好景気が終わり、この国全体が再出発の必要性に直面した時、私は彼女の言葉を思い出してそう思った。

 だがこの時、私は家と学校に支配される時間はまだまだ続くと考えていた。

 チィムニは私が関心を持たないので戦略を変えた。彼女はいかにも面白そうなことを思いついた顔で私に話しかけてきた。

「それじゃあ、アヤナに面白い問題を出してあげる」

「問題?」

「そう、問題。アヤナっていつも何か考えてるでしょ? だから暇潰しの問題よ」

 彼女はニヤニヤ笑いながら言った。

「ただし、解けるのには大分時間がかかるかもね」

「私に無駄な時間はないわ。そろそろ予備校に行かないと」

 私は大学進学が決まった頃から予備校に通っていた。

「ああ、問題を聞くだけだから時間はかからないわ」

「いいわ。聞くだけよ?」

「うん、それでいい」

 チィムニは満足そうに微笑むと話し始めた。

 それは実際には少し長く、妙な話だった。

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