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「……何を言ってるの? ケンジ」
私は呆然と呟いた。
「私が貴方の所から出ていくはずがないでしょう?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、私に出ていって欲しいの?」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
ケンジは静かに言った。
「オレはアヤナが好きだよ。ずっと大好きだ。……でも、オレと一緒にいてアヤナが好きなことができないって言うならオレは我慢するよ。アヤナみたいにオレに優しくしてくれた人はいないよ。一緒にいてくれたのはアヤナが初めてだ……だから、オレもアヤナの為に何かしたいんだ」
「そんなことを……考えてたのね」
私は可笑しくなった。ずっと自分よりも子供だと思っていたケンジに、そんなことを言われるなんて……今まで何処かで保護者ぶっていた自分が可笑しかった。
そして更におかしなことに、私の目からは涙が出て止まらなかった。
本当におかしな話だ。
「どうして泣いてるの?」
「どうしてかしら。自分でもわからないわ」
私はしばらくの間、泣き続けた。ここに来てからどれほどの涙を流しただろう。自分にこんなに涙が残っているとは思わなかった。もう、流し尽くしたと思っていたのに。
昔読んだ絵本の中に、自分の流した涙の海で溺れてしまう少女の話があった。読んだ時にはいかにも子供騙しのお伽話だと思ったものだ。しかし今、私の流した涙は私を包み込み、潤し、大きな流れとなって私を海へと導いた。
コミュニケーションの海へと。
やがて涙が止まったとき、私の胸にはほんの小さな勇気が宿っていた。
「ケンジ……私はここから出ていかないわ」
私は呟いた。
「ここにいると本当に安心することができる。自分の弱さを認めて、無理をしないで生きていくことができる。当たり前の一人の人間として生きていくことができるわ。私はここから出ていっても生きていくことはできないと思う。これは客観的な事実よ。私は結局、一人では生きていけない人間なの」
ケンジが悲しげな顔をする。私は頬を拭い、微笑んだ。
「でも、もう少し勇気を持ってみてもいいかもね。貴方の言う、コミュニケーションの海と繋がる勇気をね」
「アヤナ」
ケンジが安堵の溜息を洩らす。これじゃあ本当に保護者失格だ。
「明日にでも……大学の方に電話をかけてみるわ。生きてるってことだけでも伝えなきゃね。復学させてもらえるかどうかはわからないけど……一応は伝えてみる」
私はそばに落ちていたケンジの携帯電話を拾い、フォルダーに指をかけた。
「通信技術の発達に感謝しなきゃね。何処にいても他の人と繋がることができるんだから。そうね、私もケンジみたいにここから大学に通えばいいんだ。そうすれば貴方と離れなくてもいいじゃない?」
「無理だよ、アヤナは朝起きるのが遅過ぎるから間に合わないよ」
失礼だがもっともなことをケンジが言った。
「大丈夫よ。機材さえ揃えてしまえば、最近は家にいながらでも仕事ができるんだから。別に毎日都会に行かなくてもいいのよ。これこそ情報化社会ってものだわ」
私は笑った。
「ケンジ。お願いだから私と別れるなんて悲しいことを言わないで。確かに私は貴方以外の人間との関係を修復しなくちゃいけない。でも、だからって貴方との関係をなくしたくはないの。貴方との関係は、私の中で一番大切なものだから……だから私は貴方と別れたくない。ケンジは人間の幸福は人間同士の関係の中にしかないって言ったわよね。だったら私の幸福は貴方との関係の中にしか存在しないわ。そうでしょう?」
私は冗談めかして話を続けることができなくなった。
いつしか私の涙は、再び流れ、頬を濡らしていた。
「私を一人にしないで。私は貴方と一緒に生きていきたいの」
私は言った。
一人の女として。
「アヤナ」
ケンジが私の名を呼ぶ。
顔を上げると、涙で揺らめく水面の向こうに彼の姿が見えた。
「オレはどこにも行かないよ。アヤナがそう言うんだったらオレはアヤナと暮らす。じゃなくて、暮らしたい」
ケンジは照れ臭そうに笑った。
「やっぱり、オレも無理だよ。アヤナと離れて暮らすのはさ。ちょっとかっこいいこと言っちゃったけど……本当に出ていっちゃったらどうしようかと思ったよ。……なんか、かっこ悪いね」
そう言って微笑むケンジの顔は、いつものように無邪気なものではなく、何処か影を帯びた……しかし、綺麗な顔だった。
私はこの人となら、この星で生きていける。そう確信した。
私達は愛し合った。
長い時間をかけて一つになり、深い深い快感を得た。
私は疑問に思う。
これまでに行ってきたセックスで、私は本当に快感を得ていたのだろうかと。傷の痛みを忘れる為に、更に大きな傷をつけさせていたのではないかとさえ思う。
私は確かに彼と繋がっているのを感じた。そして更に大きなものと繋がっているのを感じた。それは大きな流れのようなものであり、私達の内にあり、外にもある。
それは否応なしに私達を飲み込んでいく大いなる流れだ。
私はケンジと共にその流れに身を委ねた。
そして、新たな流れが私の中に芽生えることを望んだ。
目を覚ますと、ケンジが布団から出ていることに気がついた。おぼつかない手つきで服を着ている。
「……どうかしたの?」
私が訊ねると、ケンジはこちらを向いて、少し出かけてくると言った。
何処へ? と訊ねると、コンビニまでとケンジは答えた。
別にこんな時間に行かなくてもいいのに、と言うと、ケンジは少し欲しいものがあるんだと答えた。
以前の私なら不安に思っただろう。しかしこの時の私は安心感で満たされ、少しくらいのケンジの不在には何の疑問も抱かなかった。今まで生きてきた中で、これほど私の心が満たされていたことはなかっただろう。物心ついたときから片時も私のそばを離れなかった不安は、そこにはなかった。
「いってらっしゃい。あんまり遅くならないでね」
私は布団から起き上がると、玄関に立ったケンジに声をかけた。
ケンジはドアに手をかけて止まり、振り返った。
「いってくるね」
廊下の明かりに彼のシルエットが浮かび上がり、そして消えた。
私は思う。
この時、私は不安に思うべきだった、と。
私はずっと、孤独への不安がなくなることを望んでいた。他人を拒絶しながらも、安心で満たされることを望んでいた。
……だが、私は思う。
この時、私の心に不安があれば、どんなに良かっただろうと。
ケンジは帰ってこなかった。