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小学生の頃、私は今よりも人間らしくなかったように思う。そして、今よりもずっと人間というものに興味を抱いていた。
私は他人に悪意を抱いたことがほとんどない。私にとって、他人の行動は全て観察の対象だ。だから誰が何をしようと、それは興味深い事柄でしかない。
観察を続け、データを集めて統計を取れば、いつか人間というものを理解できる。自分も人間になれる。私はそう信じていた。
そう、まるで青い髪の女神に「人間になりたい」と願った、ピノキオのように。
私は何度も『いじめ』と呼ばれる行為の対象となった。
小学四年生の頃、靴箱に入れておいた靴に画鋲と水性糊を大量に入れられたことがある。おそらく犯人は当時のクラスメイトの女子達だろう。
当時の私は今よりもずっと人間に関するデータが不足していた。私が最初に思ったことは、少女漫画によくあるパターンの嫌がらせの仕方だな、ということだ。それから、そう考えると犯人は相当に想像力に乏しい者か、もしくは人間というものは意外と似通った発想をするものだということになる、と考えた。そして靴の中味を取り出して、洗ってから履いて帰った。
どうやら、それを実行犯の者達が見ていたらしい。彼女らは私が表情一つ変えずに帰ったことに驚き、また翌日誰にも何も言わなかったことに戸惑ったようだ。翌朝私が教室に入った途端、何人かの女子が不自然に会話を途切れさせ、その後も奇異なものでも見るような視線が一日中つきまとった。
彼女らの行為は徐々にエスカレートしていった。おそらく彼女らは、私のことを臆病で何もできない人間だとでも思ったのだろう。それらはしばしば直接身体に危害が及ぶものでもあったが、しかし、当時の私には何の影響も与えはしなかった。
外界は全てぼんやりとしたものに感じられた。全ては水の流れに投げ込まれる石、私は深い水の底に身を横たえ、それらの起こす波紋をただ眺めていた。
彼女らは他の人間を傷つけ、疎外することに長けた者達だった。私は彼女らが私以外の者に対しても同じような行為に及ぶ様子を何度も見た。彼女らの手口は巧妙で、的確に相手の弱い部分を喰いちぎる。私はあまりに彼女らの手腕が見事なので、このような行動は人間の本能的な部分に由来しているのではないかと考えた。生態系における捕食者と被捕食者のように……勿論本当に食べるわけではないが、人間にも他者を虐げることによって活力を得る機能が備わっているのではないか、と。
だから彼女らは常に集団で行動するのだろう。自分の弱さを数で補い、万一遥かに勝る相手に出会ってしまった場合には、他の連中を犠牲にしてでも自分への被害を少なくする為に。
……話を戻そう。
クラスメイトのいじめ行為はしばらく続いたが、やがて彼女らは私に直接干渉することをやめ、時折、それも遠くから悪意のある言葉を投げかけるだけになった。
彼女らは間違えたのだ。
確かに彼女らは他の人間に対してはその能力を効果的に発揮する事ができる。しかし私は当時、人間ではなかった。彼女らの捕食対象ですらなかったのだ。
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橙色の空は灰色がかった群青となり、やがて闇に掻き消された。
夜が訪れると共に蝉の声が消えた。絶えず打ち返されていた小波のような音が消えると、周囲の空間が広く空虚になったような気がする。
私は光のない部屋の中に視線を漂わせた。
そこにあるはずの壁は何処にもなく、意識は闇に溶ける。何一つ遮るもののない空虚の中で、私の意識は彼方へと流れていった。
……幸せ?
声がした。私の心の傍らで。
いつの頃からか、私は自分の心の中にもう一人の自分を住まわせている。それは世界を眺めるもう一つの目。世界を分析する為に作り出した『二人目』だ。もう一人の『彼女』は『私』とは異なる意見を持ち、二人は時折討論を始める。私は『彼女』と並んで座り、世界を眺めてきた。
『彼女』は独立した人格ではない。それは『私』にコントロールされる存在だ。
……その、はずだった。
あの忌まわしい出来事が起きるまでは。
あれ以来、『彼女』は私に問い続ける。
幸せ? と。
「黙りなさい」
私は心の中からもう一人の存在を閉め出した。幸せか? おそらくは幸せだろう。愛している存在が隣にいてくれる。彼と共にいられるなら私は幸せだ。
……自分に嘘をつき続けている限りは。
私は隣で眠るケンジの体に寄り添い、少し眠った。
いつの頃からか、よく見る夢がある。
夢の中の私は幼く、何処かの建物の中にいる。おそらく教会だろう。私は規則正しく並べられた長椅子の一つに横たわっている。
部屋は薄暗く、壁は白い。天井は高く、見上げると天窓の側に小さな十字架が鎖で縛りつけられている。
辺りを満たす空気は凍えるほどに冷たい。
そして。
何かが小さく軋む音がする。振り向く私の視線の先で、部屋の扉が開いてゆく。
夢の始まりは変わらない。この後の展開も同様に。
開け放たれた扉の隙間から一匹の蜘蛛が入ってくる。黒い毛に覆われ、時折覗く腹の赤い模様が血のように生々しい。人のように大きくなったり、銅貨ほどに小さくなったりしながら、ゆっくりと私に近づいてくる。
私は長椅子の上から蜘蛛を見つめ続ける。
やがて足下にまで到達した蜘蛛は、私の体の上に這い上がってくる。蜘蛛の足は氷のように冷たく、いつの間にか私の手足も凍りついて動かない。蜘蛛は私の首元に這い上がり、動きを止める。
天井を見上げると、暗闇の中、一条の光が天窓から射し込んでいる。
それは透明で白い光。
いつもそこで夢は終わる。
私は夢の中で、その凍りつくような冷たさに身を委ねている。
手足は凍りつき、何の感覚もない。そして私は白い光に向かって昇ってゆくのだ。
空間が引き裂かれるようなノイズが頭の中を満たすが、私は素晴らしい開放感と共に白い光の中を進んでいく。
だが。
目が覚めた途端、突き落とされたような絶望と恐怖が私を包み込む。
光など何処にもありはしない。ただあの部屋の冷たさだけが体に残っているのだ。
最近、あの夢を見ない。
見ることがあっても、今の私は目覚めの恐怖を味わわなくてもいい。
……彼が側にいてくれるから。
私が体重をかけたせいか、眠っていたケンジが目を覚まし、電灯をつけた。
橙色の穏やかな光が彼の顔を浮かび上がらせた。
「どうしたの?」
「ごめんなさい、起こしちゃったみたいね」
「涙が出てる」
「そう? ……でも何でもないのよ」
ケンジが私の髪を掻き上げた。大きな瞳がジッと私を見つめている。
「どうしたの?」
今度は私が彼に訊ねた。
「アヤナの眼……きれいだ」
「そんなことないわ。きっと電灯のせいよ」
「……そうじゃないよ」
私は今までずっと、誰かから褒められるのが嫌いだった。しかし彼の言葉は、何の抵抗もなく私の中に入ってくる。
「ありがとう」
彼に出会ってから、何度「ありがとう」という言葉を使っただろう?
ケンジはしばらく私の髪を撫でていたが、不意に起き上がると私の上に覆い被さってきた。彼の体温が私に染み込んでくる。
「ケンジ……」
私は彼の名前を呼んだ。
「何?」
優しい声で彼が訊ねた。少し舌足らずな高い声だ。
「ケンジの瞳も綺麗よ」
彼は照れ臭そうに微笑むと、私の体に顔を埋めた。
天井にはぼんやりとあの木目が見えた。
小さい頃は何かの眼に見えた……その感覚は今も変わらないでいる。
でも、今はあの頃のように怖がったりはしない。
ケンジが共にいてくれるなら何を見られても構わない……そう思っているからだ。