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ノートを見返していると、いつの間にか正午を回っていることに気がついた。
大学時代、実験で用いるラットの飼育を任されたことがある。私は規則正しく決められた時間に決められた分量の餌を与え、ラットは仲間まで食べそうな勢いで餌を貪り尽くす。
私はラットの群れをよく眺めた。彼等は明日にも実験に使われ、神経に直接電極針を刺し込まれたり、過酷な運動を課せられたり、通常の何倍もの薬品を投与されたりする運命にある。しかし、彼等はそんなことは知らず餌を貪っている。
彼等は何故、飽きることなく食べ続けるのだろうか?
それはおそらく実験の時まで……やがて自らが死に至るその時まで生き続ける為だ。
そして今、私は自身を用いて実験を行っている。
私は食事を採ることにした。昔から食事に対する執着はあまりないが、実験に支障のない程度には健康を維持する必要がある。
実験を始めてから……彼と暮らし始めてから、私の食欲は増加の一途を辿っている。
これは興味深い傾向だ。
と、玄関のドアを叩く音がした。
ドアを開くと彼が立っていた。溢れる陽射しに背を向けて、吹き抜けの通路に立っている。チリチリと焼けつくような陽射しの中、汗に濡れたランニングシャツが筋肉質な褐色の肌に張りついている。
私は目を細め、お帰りなさい、と言った。
彼は返事をせず、ただ機械的に頷いた。
彼の名前はケンジという。
本名は知らない。ただ『ケンジ』……それだけだ。
そして彼こそが、私の実験のもう一人の対象である。
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「どうしたの? こんなに早く帰ってくるなんて」
私が訊ねると、ケンジは小さく「監督が怒る」と答えた。
大柄な身体が入ったせいで、アパートの部屋が更に狭くなったように見える。
「どうして? 監督さんと喧嘩したの?」
「違う……」
彼の声は何処か頼りなく、それが彼の発達した肉体とのギャップを生み出す。
「監督と……お客さんが・・…喧嘩した」
彼は床に座り込んだ。どうやら彼の勤め先である工事現場でトラブルが起き、今日の工事はストップ、ということらしい。
「よくあることよ。お客さんは自分の家のことで苛々しているのね」
私は汗ばんだ彼の身体をタオルで拭いた。日に焼けた彼の身体は何処までも濃い褐色だ。顔を近づけると、焼けた金属のような匂いがした。
「でも、監督は……オレのせいだって言った……お前が頭悪いからいけないんだって」
「そんなことはないわ。ケンジ、貴方は素晴らしい人よ」
私は彼の肌に頬を寄せた。彼の肌は滑らかで、筋肉はよく鍛えられ引き締まっている。こんな理想的な肉体を持つ者に何の不満があるというのだろうか? 私は会ったこともない『監督』への敵意を募らせた。
「アヤナ……」
不意にケンジが私を抱え込んだ。
逆らうこともできず、私は畳の上に押し倒される。
彼の息が首筋にかかり、熱い肉体が私を包み込んだ。
私の名前を呼ぶ時、彼の声は少し高く、いっそう弱々しくなる。
まるで何もできない子供が、誰かに救いを求めているように。
「わかったわ。ケンジ……わかった」
私は彼の頭を胸に抱き寄せた。
「してもいいわ。いっぱいして……でも今は駄目よ」
ケンジが私の目を見た。多くの言葉を扱うことには長けていない彼だが、その目は言葉よりも多くのことを伝えることができる。私はこの時、彼の瞳の中に欲望よりも恐怖の感情を見て取った。
「私だって貴方に抱かれたいわ。貴方に愛されたい。でもね、私は朝から何も食べていないの。ケンジだってお腹空いたでしょう? だから、するのは御飯を食べてから……いい?」
ケンジは小さく頷くと私の上から退いた。
「ごめん……アヤナ」
「いいのよ。ケンジ」
私は立ち上がって台所に向かった。
「何が食べたい?」
ケンジは暫く視線を宙に漂わせ、やがてポツリと呟く。
「……オムライス」
予想通りの答えだ。彼は慰めてほしいとき、必ずオムライスを食べたがる。
問題は……私が未だにオムライスを作るのが苦手なことだ。
数十分の食材との格闘の末、私は何とかオムライスを作り上げた。
味付けに関しては彼の好みに合うものを作り出せる自信があるのだが(調味料の配合など数十種類の薬品の調合に比べれば楽なものだ)、問題はケチャップライスを卵で包み込む作業。これがなかなかに難しい。
しかし、今回はかなりオムライスに近いものが作り出せたように思う。この料理を見せてアンケートを取れば、おそらく『これはオムライスだ』との回答が過半数を占めるはずだ。
「実験なら有効数値とは言えないけど、選挙なら勝ちね」
料理を運びながら呟くと、ちゃぶ台の前に座ったケンジが不思議そうな顔をした。
「ごめんね。オムライス、いつも上手にできなくて」
「いいよ……オレ、アヤナのオムライス……好きだし」
ケンジはスプーンを逆手に持って答えた。彼は箸を使う事ができない。いつもスプーンで食事をする。それも逆手に持って。だから、彼はすくった物を口に運ぶ前に、その大半をこぼしてしまう。
以前、ケンジは箸を使わないのかと訊いたことがある。すると彼は目線を逸らし、小さな声で呟いた。
「アヤナ……センセイみたいなこと……言うな」
彼は自分の過去について話をしようとしないので、私には『センセイ』が誰なのかはわからない。しかし、彼の過去にそれにまつわる嫌なことがあったのは確かだ。
そして、彼は未だに箸を使えないでいる。
異論があるかもしれないが、私はそれはそれでいいのではないかと考えている。確かに箸は使えないよりは使えた方がいいだろうし、言葉もきちんと話せた方がいいだろう。しかし、どんな人間にもできない事はある。それは例えば水泳だったり、英単語の暗記だったりする。彼の場合はそれがたまたま初歩段階にあっただけだ。
万能の人間はいないし、誰にでも苦手なものはある。私がどうしても人間というものを理解できないように、ケンジは箸が使えない。それだけのことだ。
オムライスの卵はケンジのスプーンによってグシャグシャになってしまった。私の苦労を考えるともう少し丁寧に食べてほしいものだが、元々上手くできていなかったので却って気が楽でもある。
ケンジは逆手に持ったスプーンで必死にバラバラになったオムライスを掬っていた。卵の中から飛び出したケチャップライスが皿の上に散らばり、それをまた掻き集め、猛スピードで平らげていく。遂には皿を持ち上げて残ったケチャップライスを口に流し込もうとして、ケンジは私に見つめられていることに気がついたらしく、手を止めた。
「……どうしたの? アヤナ……早く食べないと」
どうやら、ケンジが急いで食べているのは空腹の為ではなく、早く私を抱きたいかららしい。私は彼の正直な欲求に苦笑した。
「そうね。早く食べないとね」
私は今、食事をしている。
それは栄養を摂取して生き延びる為だ。
今回の食事で、私は生命活動の維持限界を数時間延ばすことができるだろう。そして彼と交わることができる。彼を喜ばせることができる。
彼は私を欲し、私も彼を欲している。
私は生き延びたい。
生き延びて彼と共に時を過ごしたい。
だから、私は食事をしているのだ。
私は生まれてからずっと食事をし続けてきた。もしかすると、それは私と彼とを交わらせる為だったのかもしれない。