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レポート  作者: 篠森京夜
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 それから私は、ケンジから幾つかの話を聞いた。

 ここがニュータウンの建設現場であること。

 工事が途中でストップしたこと。

 そしてここで、ケンジが一人で暮らしていること。

 一人で暮らしている理由については語られなかったが、そこに至るまでの大まかな事情を聞くことはできた。

 ケンジはとある下請の建設会社で働いている。彼の会社はニュータウン建設の一部を担当しており、かなりの間、多くの従業員がこのアパートに泊まり込みで働いていたらしい。その後不景気の波を被って工事は中断、彼以外の現場担当者もここを引き払った。しかし、ケンジだけはここを離れなかったらしい。

「前の家は狭かったし、あまりいい所じゃなかったんだ。それにオレは、ここが気に入っていたし……」

 ケンジは言葉を濁した。これ以上は聞いてほしくないと言うことだろう。

 偉そうに言うことでもないが、ケンジは軽度の障害を抱えているようだった。おそらく彼は、小学校低学年程度の知能レベルしか持ち合わせていない。社会的な技術はないに等しいと言っていいだろう。

 実際、彼を見ていると、酷く繊細で傷つきやすい子供を見ているような気になる。もっとも、肉体的には健全に成長しており、見た目は成熟した男性にしか見えないのだが。

 ケンジのような……あまり使いたくはない表現だが、いわゆる障害者が、実社会に出て一人で生活しているというのは珍しいことではないかと思う。彼が自分から一人で生きて行くことを決意したとも思えない。おそらくは保護者の無関心、あるいは死亡で、彼は一人でこの社会に放り出されたのだろう。

 だが、それが悪いことだとは思わない。彼を重病人のように隔離し、閉じ込めることがいいことだとは思わない。勿論、福祉施設を否定するわけではないが、少なくとも彼は世界から切り離されるべき存在ではない。

 彼はこの社会の中で立派に生きてきた。

 むしろ、病院に閉じ込められるべきは私の方だ。

「ケンジはこの部屋でずっと生活してきたのね」

 私が訊ねると、ケンジは恥ずかしそうに体を縮めた。

「皆は変だって言うけどね」

「洗濯とか食事とか、一人でできるんでしょう?」

「食事は遠くのコンビニで買ってるし、掃除もあんまりしない。あ、でもちゃんと洗濯はしてるよ。洗濯機もあるし」

 照れて否定していたケンジは、あまり否定し過ぎると怒られるのではないかと思ったらしく、慌てて洗濯の話をした。ケンジにつられて顔を向けると、ベランダに小さな洗濯機が置いてあった。後から聞いた話では、これはケンジの仲間が買った中古品を置いていったものらしい。結局、彼等が洗濯をすることはほとんどなかったらしいが。

 ちなみにケンジは自分で言うほど何もしない訳ではなく、数少ない電化製品をちゃんと使用法を覚えて使っていたようだ。

「貴方はずっと生きてきたんでしょう? 一人で……ちゃんと」

 私は訊ねた。

「うん?」

 ケンジは質問の意味をよく理解しないまま頷いた。

「それだけで偉いわ。私とは大違いね」

「……そうかな?」

「そうなのよ」

 ケンジは不思議そうな顔をしていたが、私が微笑むと嬉しそうにうつむいた。

「アヤナはどこに住んでいるの?」

 不意にケンジが訊ねた。

「……私に帰る所はないわ」

 私は答えた。少しの間忘れていた痛みが、胸の奥で疼く。そんな私を、ケンジはしげしげと眺めると、小さな……しかし、しっかりとした声で言った。

「それなら……ここにいなよ、アヤナ。ここにいればいい」

「何て言ったの?」

 私が訊き返すと、ケンジは怒られたのかと思ったらしく、慌てて顔を背けた。

「怒ってないわ、ケンジ。ただ、貴方が何て言ったのかわからなくて」

「アヤナがここにずっといればいいのに……って言ったんだよ」

 ケンジは緊張した面持ちで、正直に自分の願望を口にした。

「嫌?」

 ケンジが上目遣いで私を見る。

「嫌じゃない。嫌じゃない……嬉しい話だわ。でも」

「じゃあいいだろ?」

 しどろもどろになって答える私に、ケンジは一転して積極さを発揮した。

「……でも」

「ねえ!」

「…………でも」

「でも?」

 ケンジが真剣な表情で私の目を覗き込む。

 いつしか、私は笑い出していた。それも、自分でも吃驚するくらいに、幸せそうに。私はケンジの伸ばした腕をつかんだ。

「本当にいいの?」

「うん」

 ケンジも本当に嬉しそうに頷いた。


 私達はケンジの買ってきたコンビニの弁当を食べた。そして、二人で一緒に眠った。


   /


 私はケンジを利用していると思う。

 彼の心は信じられないほどに美しく、純粋だ。彼といる時、私はこれまでずっと抱いていた緊張感や違和感から開放される。だから私は彼と共にいる。

 彼といる時……彼に抱かれ、求められている時、心がバラバラになることがない。彼の腕に抱かれている時、私は不安を感じない。私は自分が一つの存在であることを感じる。 

 だから私はケンジと共にいる。

 彼に抱かれている。

 私は彼を利用している。

 ……そう思う。

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