36
夢を見た。
私は薄暗い水辺に横たわっている。流れは浅く、底には水草がまばらに茂り、微かな流れに揺らめいている。足は流れの中にあり、濡れた土は冷たい。
何かが水底に埋まっているのが見える。
銀色の小さな十字架と、セルロイドの人形。
泥に埋もれ、崩れかかっている。
私はこれらを知っている。でも、何処で見たのだろう? 私はそれらをいつも当たり前のように見ていた……そんな気がする。
何かが動く音がした。
ピシャリ、ピシャリと水の上を歩いてくる。
夢の中だからだろう。私は近づいてくるのが蜘蛛だとわかっていた。
蜘蛛は私のすぐ側まで来ると、動きを止めた。恐怖の為か、私は動くことができない。ただ、すぐ近くに蜘蛛の存在を感じながら横たわっている。
やがて、蜘蛛は長い足を伸ばして私の上に覆い被さってきた……。
次の瞬間。
何かが衝突するような衝撃で、私は夢から引き剥がされた。
何層にも積み重なった意識の雲を突き破り、私は現実世界に戻った。
自分が何処にいるのかわからなかった。蒸気が立ちこめ、頭上からは熱い飛沫が降り注ぐ。混濁する意識を抑え、一面に敷き詰められた淡い黄色のタイルに爪を立てる。
……浴室?
私は顔を上げ、周囲を見渡した。白熱灯に煌々と照らされた、ここは浴室……正確にはシャワー室だ。それもかなり大きい。横長の壁面に幾つものシャワーが取りつけられ、その内の一つが、壁にもたれて座り込んでいる私に向かって湯を投げかけている。
熱い。だが身体は冷え切っている。
凍えた体を摩ろうとして、私は自分の状態が妙なことに気がついた。シャワー室にいるのに服を着ている。しかも襟首の辺りから引き裂かれてボロボロになっているのだ。下着もつけたままだから犯されたというわけではないだろうが、殆ど裸の状態だ。まるで動物が私の服を脱がそうとして、やり方がわからず途中で諦めたようだ。
そもそも、私はどうやってここに来たのだろう。
誰かが運んだのだろうか?
だとしたら、誰が、何の為に?
ここは……何処だ?
その時、扉が開いて誰かが入ってきた。
湯気に隠れて顔はよく見えないが、かなり大きな男だ。声を出そうとしたが、喉が掠れてうまく声にならない。男が私に近づくに連れて、何も着ていないギリシャの彫刻のような上半身があらわになった。
「……だ……れ?」
男が屈んで私の方に手を伸ばしたとき、ようやくまともな声を発することができた。男の手が止まる。私が意識を取り戻していると気がついたらしい。
「ここは、何処? 私は、どうして……ここにいるの?」
掠れた声を途切れ途切れに吐き出す。影になった男の顔はよく見えず、何の反応も伺うことができない。私はまるで大きな岩の塊と対峙しているような気がした。
不意に男の手が伸び、大きな指が私の腕をつかんだ。
そして、男は私を押し倒して覆い被さってきた。
「…………!」
男は私を組み敷くと、強引に服を脱がし始めた。男の力は信じられないほどに強く、元々破れていた私の服が簡単に裂ける。
圧倒的な力に肉体ごと引き裂かれるのではないかという恐怖が私を襲った。
「やめて……やめてよ!」
私は叫んだ。しかしどんなに叫んだところで、男が私を壊すのを止めるとは思っていなかった。
だから男が驚いたように離れたとき、私は逆に驚いた。
咳き込みながら起き上がると、男はシャワー室の反対側の壁際にうずくまっていた。蒸気に遮られてよくわからないが、頭を抱えて震えているように見えた。
「……どうしたの?」
私は男に近づくと、咳き込みながら訊ねた。
「ゴメン」
男が顔を上げ、呟いた。男の容姿から受ける印象とはかけ離れてか細く、幼いと言ってもいいような声。白熱灯の光に照らし出されたのは何処か異国風の顔立ち。鼻筋が高く、目は驚くほど大きく澄んでいる。
年齢は二十歳前後だろうか。
しかし、その瞳に浮かんだ怯えの色が、彼の印象を更に幼くしていた。
「ここは何処?」
私は破れた衣服を整えながら訊ねた。もっとも、服は既に原形を留めておらず、無意味な行動だったけれど。不思議なことに、互いに裸同然の姿でいながら、私は既に目の前の男に警戒を覚えていなかった。
「ここは……俺の家……住んでる」
「普通の家じゃないわね」
私はシャワー室の大きさを見ながら言った。
「アパート……昔は皆、住んでた」
「昔?」
「今は住んでない」
「?」
「……怒ってない?」
「何を?」
私が訊き返すと、彼は上目遣いに私を見つめ、小さく呟いた。
「……さっき、やめて、って叫んだ」
「そうね」
私は頷いた。確かに先程は恐怖を覚えたが、こうして彼を見ていると、怒るどころか逆に心配になってくる。それほど彼の表情は頼りなかったし、不安定だった。今、精神的に傷つく可能性があるのは、私よりも彼の方のような気さえした。
「でも、貴方がやめてくれたから今は怒ってない。本当よ」
なるべく柔らかな物腰で、傷つけないよう慎重に、ゆっくりと言葉を並べる。彼は不安げな瞳で私を見ていたが、やがて安心したのか張り詰めていた表情を和らげた。まるで本当に小さな子供のようだ。
「大穴の方に、フラフラ歩いてくのを見たんだ」
男は言った。
「あそこは落ちると死んじゃうから、引き止めたら気を失っちゃって……それで家まで運んだんだ。どうしたらいいのかわからなったから……とりあえず体を温めようと思って……でも服を上手く脱がせられなかったんだ」
彼はたどたどしく言葉を続けた。
思い出したように破れた衣服を見る私に、また怯えた眼差しを向ける。今度は服を破ってしまったことを怒られると思っているのだろう。
「大丈夫。怒ってないわ」
彼は戸惑ったようだったが、また安心した顔をした。
私の体にようやく血が巡り始めた。かじかんだ指にくすぐったいような感覚が走り、赤みが差した。
彼に掴まれた部分が痛む。よく見ると右手首に小さな切り傷があり、血の気の悪い肌が一直線に裂け、血が滲んでいる。さっきの彼の乱暴でできた傷とは思えない。何処かで何かに引っ掛けてしまったのだろう。
私は傷に唇をつけて舐めた。
……微かに痛む。
もう一度、強く吸ってみると、さっきより強く痛んだ。
そして、口の中に鉄に似た味が広がった。
「ねえ」
私は男に呼び掛けた。
「何?」
彼は大きな目を更に大きく開いて訊ねた。
「ちょっと、こっちに来てくれる?」
「……どうして?」
怯えたような声。
「いいから。来てよ」
私は手招きした。男は戸惑いつつも、四つん這いのまま私の方に近寄ってきた。
「舐めてくれない?」
私は手首の傷を軽く舐めると、男の方に差し出した。
「……でも」
「いいから」
男はゆっくりと顔を動かし、傷口を吸った。自分でした時よりも遥かに強い痛みが走る。私は予想外の痛みに顔をしかめた。
「ゴ、ゴメン」
私の表情に気づいたのか、男が口を離し、泣きそうな声で謝る。
「いいの。ちゃんと痛いのか確かめてみただけだから」
私はもう一度傷口を舐めた。それから私は、ぼんやりと自分の感覚に集中した。
「ねえ」
私。
「何?」
男。
「……私、生きてるわ」
私は呟いた。
「生きてるのよ」
「それ、どういうこと?」
「……どういうことなんだろうね」
気がつくと、男が私の顔をじっと見つめていた。先程までの弱気なものとは違う、ある種の感情の光を宿している。男は瞳にその光を宿したまま、私の身体に視線を移した。
どうやら、見かけほど子供というわけでもないらしい。
いや、体の成長と知識、精神のレベルがつり合っていないのだろう。実際、その気になればどうとでもできるだろうに、じっと見ているだけで動こうとはしない。欲求はあっても、具体的に私の体をどうすればいいのかはわからないらしい。
「欲しい?」
訊ねると、男はびくりと顔を上げて私を見た。
長い沈黙の後、男の首が小さく縦に揺れた。
「やり方は?」
男の首が横に揺れた。
「じゃあ、教えてあげるわ」
男を抱き締めると、男はまるで小さな子供のように私の胸に顔を寄せた。
「何も怖がることはないんだからね」
私はその言葉を、誰よりも自分自身に言い聞かせた。
暖かな雨が降り注いでいた。




