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どのくらい歩いただろうか。
いつの間にか降り始めた雨の中、私の感覚は徐々に失われ始めていた。
冷たさも、肌を打つ水滴の存在もはっきりしない。
思考は一つとして結論に及ばず、いつまでも同じ思考を繰り返すうち、そこに本当に思考があったのかさえわからなくなってくる。
自分の存在さえ……確認することができない。
このまま私は消えてなくなるのだろう。私という存在は塵のように小さくなり、小さくなり、遂には消えてしまうのだろう。
いや、消えてしまうことはできないかもしれない。
私は無限に縮小を続け、それでも完全な無に達することはできないのかもしれない。
終わりは来ないのかもしれない。
そう思った。
小さな歌声が聞こえた。
歌声は雨粒の隙間をぬって流れてきた。何処か聞き覚えのある旋律。私は音楽には疎いし、曲名を思い出すこともできないけれど。その賛美歌のような旋律に覚えがあった。
その時だった。あの女が現れたのは。
『どんな気分?』
声がした。少し低い、背筋を撫で上げるような声。
顔を上げると、私は隣に一人の女がいることに気がついた。まるで鏡に写したように私と同じ体型、同じ長い髪。雨を気にするようでもなく、鼻歌を歌いながら私の隣を歩いている。
「……誰?」
『さあ?』
女は鼻歌をやめて楽しげに笑った。白いワンピースの裾が歩くごとに翻り、足が地面を離れている時間が長くなっていくような気がする。
「さっきから喋っていたのは貴女なの?」
『あれは貴女自身の声、そして私の声』
「どういうこと?」
『私は貴女であって貴女でないもの。私は貴女で、貴女は私。それと同時に私は貴女ではなく、貴女は私じゃない。わかる?』
「まるでマグベスの魔女ね。訳がわからないわ」
『時の流れは一つではなく、真実は一つとは限らない。意味と事実はそれぞれの立場で形を変え、時間すら正しくは流れない。ある種の世界ではね』
「何が言いたいの?」
女は可笑しくてたまらなそうな顔で言った。
『難しそうな言葉を使っておくと何か深刻な意味がありそうじゃない?』
「…………」
『そう怒らないで』
女は白いワンピースをはためかせながら私の前に立った。
『周りを見なさい。貴女は今、世界の果てにいる。この世界の終わる所にね』
私達はいつの間にか、他には誰一人としていない場所に立っていた。空には星もなく、取り囲むように聳え立つ建造物には一つとして明かりがついていない。
「ここは……」
『貴女は今、世界から引き離された状態にいる』
女は言った。
『支えるものがなくなった今、自分自身の重さにさえ耐えることはできない。だから、貴女はここに来た。世界の底にね』
「私は……どうなるの?」
『どうしたい?』
「……もう、どうでもいいわ」
女に反発する気力も失せた。
「ここが世界の終わりだと言うならこのまま消えてしまいたい。ここが私の終わりだとしても私はそれで構わないわ」
『それはできないわ』
背後から風が吹きつけ、女と私の髪を乱した。風の吸い込まれる場所……女の背後には大きな壁のように闇が広がっている。
『貴女は死なない。まだ実験は終わっていないもの。ううん、ようやく始まったばかりなのよ』
「どうして? 私が生きていたって仕方がないじゃない。これ以上、私がこの世界にいる意味なんてない。そうでしょう?」
『そうじゃない』
女はゆっくりと首を横に振った。
『確かに貴女は幸せに生きることはできないかもしれない。でも、貴女は生き続けなければならない。どんなに惨めでも生き続けるの。貴女にはそれができるはずよ』
「信じないわ」
私は呟いた。
「そんな話は信じない。私は不完全で欠陥だらけの人間よ。私は人間社会の中のバグに違いないわ。だから、ずっと人を傷つけてきた。私は存在しないほうがいいの。きっと今にもっと多くの人を傷つけるようになるわ」
『わかってないのね』
女は嬉しそうに、そして悲しそうに微笑んだ。
『だからこそ、貴女には生きる意味があるのに……』
女は一歩後ろに下がった。女の足が闇に消え、まるで宙に浮いているように見える。
私も彼女を追って闇の中に踏み込んだ。その瞬間、私の足下から地面が消えた。瞬く間に世界が反転し、深い闇の中に投げ出される。
それは何もない空間だった。全てのものが意味を失い、何も見えず、何も聞こえず、触れることすら叶わぬ世界。
私は恐怖した。闇に閉じ込められてしまうことに恐怖した。
その時、誰かが私の手をつかみ、世界へと引き戻した。




