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「……健……児……?」
私は彼の名前を呼んだ。
何度も何度も、言葉が噛み砕かれ、意味を失うまで。私は繰り返した。
呼び続ければ、彼の名前を声に出し続ければ、いつか言葉と現実が合わさる時が来るかもしれない。
だって、あれは健児じゃない。
私は認めない。
私の知っている彼は、あんなバラバラになった骨と肉の塊なんかじゃないからだ。
あれは健児じゃない。
……絶対に、健児なんかじゃ……。
「健児?」
真珠が立っていた。
「何なのこれ? ……何なのよ?」
彼女はふらついた足取りで私の方に近づいてきた。彼女の視線は暫くの間、宙を漂っていたが、やがて私を捕らえると急激に感情を爆発させた。
「何なのよこれは!? 一体これはどういうことなのよ! 説明しなさいよ!」
「わからない……わからない」
私は呟いた。自分は何もわかっていないことを彼女に理解して欲しかった。他の誰かの失敗を自分のせいにされた子供のように、現実に対する無力と無実を認めて欲しかった。
「私にもあれが何なのかわからないの。あれは一体何なのかしら? ねえ、貴女も一緒に考えてくれない?」
おそらく私の顔には媚びるような笑みさえ浮かんでいたはずだ。
だが、真珠は応えなかった。
彼女は見つめた。
それは何もない空間、さっきまで一人の男の形をしていたはずの空間だ。
真珠は大きく目を見開き、空を見つめた。
……不意に、彼女の口元が歪んだ。
それが笑ったのだと気づくまでに、かなりの時間がかかった。
「私よ」
「え?」
「私なのよ」
「……何?」
真珠は首をカクンと曲げて私に微笑みかけた。
「彼が最後に助けようとしたのは私。アンタじゃない」
何かが外れたように大きく開いた目に青い髪がかかった。
「私なんだから」
そして彼女はけたたましく笑い……糸が切れたように地面に座り込んだ。
「……私、最低だ」
呟き、彼女は倒れた。
駆け寄ってきたタカハラが地面にぶつかる直前で抱き止め、地面に横たえる。彼は建物に突っ込んで潰れている車に近づいていった。
「運転手も即死だな。病気か飲酒運転か……」
タカハラは足を振り上げ、車を思いきり蹴りつけた。
ずるり。
車輪に挟まっていた肉体の一部がずり落ちる。
「……っ」
タカハラは咄嗟に目を背けると、
「……畜生」
もう一度車を蹴りつけた。何かが変わるわけでもないことは彼にもわかっていたはずだ。しかし、彼にできることはそれしかなかった。
真珠は地面に額を押しつけながら起き上がり、クスクスと笑い始めた。
彼女の笑い声は少しずつ大きくなり、不意に止まった。
後に残ったのは百万平方メートルの空虚。
そこには何もなかった。怒り、悲しみ、絶望……それらが臨界点を超えた時、後には何も残らなかった。
「……消えてよ」
生気の抜けた瞳が私を見つめる。
「ここから消えて……二度と私の前に姿を現さないで」
「…………わかった」
私は答えた。
だから、タカハラが戻ってきたとき、私はそこにいなかった。
/
私は歩き続けた。
私を動かしていたのは惰性、そして恐怖だった。
立ち止まりたくない。立ち止まったら、現実が私を捕らえる。
私には『それ』がすぐ後ろから迫ってくるのを感じることができた。
『それ』は少しも慌てない。やがて私が疲れ果て、立ち止まったところを襲えばいいのだから。そして私の心の中に侵入し、たった一つの事実を告げるだろう。
終わりがやってきたのだ、と。
携帯電話が鳴った。
研究室のタヤマからだった。
「あ、花村さんですか? よかった、やっと捕まった!」
私が用件を訊ねるとタヤマは関を切ったように話し始めた。
「大変なんです。実は今日の七時三十分、計画通りにホムンクルスに小規模な環境変動を与えたのですが、その時に何所かでバグが生じたらしく、『6』の構造の一部に変化が生じました。これは数値的に言うと……」
私はタヤマの話を呆然と聞いていた。
『6』に生じたバグは、ほんの些細なものに過ぎなかった。しかし、そのバグは完璧な『6』の構造を歪ませ、予定されていた環境変動と合わさって壊滅的な被害をもたらしたのだ。その結果『6』の集合体は崩壊、ホムンクルスの大部分を占めていた『6』の激減により、全体の生態系が大幅に狂ってしまったらしい。
「『6』及びそれと共生していたものは殆ど壊滅。残っているのは『6』の勢力範囲外にいた単純なものと『イジドア』が少し、これもわずかです。これじゃあ初期段階に逆戻りですよ!」
タヤマは計画の存続自体が危ないのではないかと言った。
「これをスポンサーが知ったら……あいつらときたら理解はないし、成果を出せと言うばかりじゃないですか。教授は役に立たないし、花村さんだけが頼りなんですよ」
「終わったのよ。もう手後れだわ」
私は電話を切り、電源を切った。
もうどうでもいい。
全ては終わった。
……終わってしまったのだ。