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何を言えばいい?
何を伝えればいい?
何をすればいいというのだろう?
いや、答えはわかっている。私は『営業用』の笑顔を浮かべ、右手を差し出しながらこう言えばいい。
心配しないで、貴方のことを恨んでなんていないわ。いつまでも過去にこだわらず新しくやり直しましょう。私も貴方が成功していることを嬉しく思う。それに素敵な婚約者ね、とても可愛らしくてお似合いだわ。結婚式には必ず招待してね。
私の体はそれを実行することを拒絶した。神経は寸断され、精神と体は切り離された。私はただ、糸の切れた操り人形のように立っていることしかできなかった。
『ほらほら、アヤナちゃん。ぼんやりしてちゃダメでしょう?』
声がした。
『何も言わないと変だと思われるわよ? ほらほら、早く人間の振りをしなくちゃいけないわ。そうしないと人間じゃないって皆にばれちゃうわよ? ばれちゃうわよ? ばれちゃうわよ? ばれちゃうわよ? ……ほら、早く何かしないと』
わかってる。
でも、何をすればいいんだろう?
『……キスでもしたら?』
声はけたたましい笑い声と共に周囲に響き渡った。
青い風が煌めく。
気がついたとき、真珠が健児に抱きついて頬にキスをしていた。
「こら、何するんだよ真珠」
健児が慌てて抱き止める。真珠は健児の言葉には耳を貸さず、彼の体に両腕を回したまま私を睨みつけた。
「ねえ、健児は私のこと好きよね?」
「いきなりどうしたんだ?」
「ちゃんと答えて」
「勿論、愛してるよ」
健児は照れ臭そうに私を一瞥すると、軽く彼女の背を叩いてこれでいいかと訊ねた。
「うん。それでいい」
真珠が健児に抱きつき、わずかに顔を動かして私を見る。
そこには恐ろしいほどに冷たく、美しい笑みが浮かべられていた。
『あらあら。彼女はみーんなお見通しのようね?』
声。
「黙れ!」
声が出てしまったらしい。その場にいた全員の視線が私に集中した。
「どうしたの?」
「……何でもない」
私は一刻も早くこの場から立ち去ることを決意した。健児から離れるのだ。今の私には考える時間が必要だ。
「健児。今日は貴方と会えて嬉しかったわ。でも、悪いんだけど今日は私、用事があることを思い出したの。だから私、帰らなくちゃいけない」
「そうなのか。残念だな。また会えるかな?」
「連絡先はタカハラに聞けばわかるわ。でも私、急に出張が入るかもしれない……から」
私は少しずつあとずさった。
「また会いたい。君の話も聞きたいし」
「……来ないで」
近づいてきた健児から目を逸らし、私は叫んだ。
「私に近寄らないで。私に触れないで……私にこれ以上、関わらないで!」
次の瞬間、私はフロアの出口に向かって走り出していた。
色々な人間にぶつかった。大勢の人間が私には理解できない言葉で話をしていた。私は蜘蛛の巣のように張り巡らされた人間の『関係』の中を走った。誰かの傍らを走り抜ける度、破れた針金のように『関係』が私を傷つける。
どうして、こんなに人間がいるんだろう? 一体何を話しているんだろう? 走りながら考えた。しかし、私には彼等の言葉はわからなかった。
誰かが私の腕をつかんだ。
「先輩!」
我に返るとサオリが目の前にいた。彼女は頬を上気させ、目を輝かせていた。
「先輩、こんな所にいたんですか。探したんですよ?」
「……あ……うん」
彼女は私のたどたどしい返事には気づかず、楽し気に話し始めた。
「私、先輩にお礼を言わなくちゃ。本当に先輩の言う通りです」
「……何が?」
「勇気を持って自分から飛び込んでいけば人は答えてくれるんですね。私、今までなんて臆病だったんだろ!」
「話が……よくわからないわ」
サオリがはにかみ、誰かに向かって手を振る。顔を向けると、少し離れた席で、あのオカダとかいう男が締まりのない表情で手を振り返していた。隣の席では朝食男が苦笑いを浮かべている。
「彼に……何を?」
「先輩に言われた通りのことです」
サオリは頬を赤らめた。
「私、これからはもっと人と接して生きていきたいと思います。私はこれまで結局、自分一人の中に閉じこもっていたんですね。でも、そんなのはもう嫌です。これからはもっといろいろな人と接したい、もっと広い世界を見たいです。私、あの人と一緒ならそれができるような気がします」
「…………」
サオリは嬉しそうに瞳を輝かせて言った。
「ありがとうございます、先輩。先輩は本当に素敵な人です。私も先輩のように生きていきたいです」
「……私はそんな人間じゃない」
「え?」
私はサオリの肩に手をやって呟いた。
「私はそんな人間じゃないの」
そして私はサオリを押しやって歩き出した。
「先輩?」
後ろからサオリの声がした。
「先輩、何処に行くんですか?」
「わからないわ」
「え、あの……先輩?」
私は振り向いた。
「サオリちゃん。貴女と会えて良かったわ」
もしかしたら私は微笑んでいたのかもしれない。
サオリは少し戸惑っていたようだが、やがて幼女のようにあどけない笑みを浮かべると、私もです、と答えた。
「明日……研究室で会いましょう。ホムンクルスが待ってるわ」
「はい!」
サオリは幸せそうに手を振り、彼女を待っている者の方へと走って行った。