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私がぼんやりとしていたんだろう。
不意に健児が私を抱き寄せ、フロアの中央に進み出た。視界が回転し、目の前に健児の肉体が迫る。こんな温もりだっただろうか? 匂いも少し違うような気がする。私は健児の体にしがみつき、私の記憶にある温もりと匂いを探そうとした。
「運命を信じるかい? アヤナ」
「信じないわ」
「僕は世界には不思議な力が働いているように思う。僕達は九年前に出会った……普通だったらそれだけの、お互いに忘れてしまうようなことだ。でも、僕らはお互いにお互いを忘れることなく再び巡り会うことができた」
「……そうね」
私は健児との距離を……胸が張り裂けそうなほどに遥かな九年という距離を少しでも縮めようと、きつく健児の服を握り締めた。
「この九年間の行動のどれを抜いても、こうして君と再会することはできなかっただろう。今の仕事を始めて、タカハラと知り合って、そして彼から君の話を聞くことができた。本当に吃驚するくらいの偶然だよ。きっと、この九年間の行動の全てがこの瞬間に向かって流れていたんだ。そう思わないかい? もしもあの時あの電車に乗りそこねていたら、君と会えなかったかもしれない。あの空を眺めていたのが、君と出会う為の重要な要素だったのかもしれない」
彼は楽しそうに言った。
「これは、まるでフィリップ・D・ディック並のSFだよ」
健児のあまりに真剣な物言いに、私は少し吹き出した。胸の奥が暖かくなり、全身の緊張が解ける。
「相変わらず馬鹿なことばかり考えてるのね」
「こればかりは九年くらいじゃ変わらないよ」
健児は微笑んだ。
「……馬鹿」
私は彼の体にもたれこんだ。少し逞しくなった体は私を受入れ、私達の表面はパズルのピースのように合わさった。息を吸い込むと若草の匂いがした。
……なんだ、ちっとも変わっていないじゃないか。
顔を上げると涙で滲んだ水面の向こうに健児の顔が見えた。
「貴方に会いたかったわ」
「僕もだ」
「貴方には謝らなければならないことがあるから」
「あの時は……」
健児の口調が微かに淀む。
「なんて言えばいいんだろう。初めて会った時から君とは何か繋がりを感じていた。僕の心の中にある何かが君を求めていたんだ。それが何なのか言葉にすることはできないけど……確かにそれは感じることができたんだ。でも、昔の僕は、ちゃんと君にそれを伝えることができなかった。だから僕は、僕のほうこそ君に謝らなければならない」
違う。拒絶したのは私の方だ。
「健児……私達、もう一度やりなおせないかしら?」
いささかありふれた言葉を私は選び出した。言葉のアクセント、響き、緩急、そのすべてに感情を込めて、ゆっくりと。
人間らしく、人間らしく……想いを伝えるのだ。
「完全に昔には戻れないよ」
何処か寂しげな瞳が私を見つめた。それは彼の方が冷静に過去との隔たりを自覚していたからであり、私の真意を知らなかったからだ。
だが、私は逆上した。
私は彼との関係を修復したかった。でも、お互いに相手のことを必要とする強さに違いが生じていることに気づいていなかった。
『話すの?』
声が訊ねる。
そうしなければ……何も変わらない。
「貴方との関係をなくしてしまったことをとても後悔しているわ」
私は話し始めた。
「私は貴方との関係をもう一度形成して、構築して、維持して、管理して、将来的に続けていきたいと思っているの。私は貴方との関係を重要なことだと思っているの。私の言っていることわかる? 言葉は通じてる?」
「ああ……ちゃんと、わかるよ」
健児が大きく頷く。
私は彼を離すまいと、必死にしがみつきながら言葉を選んだ。
「私は誰とも関係を持ちたくなかったわ。だって、それは私にとってマイナスの影響が多いから、経済的で有益なものとはならなかったからよ。わかる? 私は誰かと一緒にいるだけで嫌な気分がするの、誰かが側にいるだけで私は滅茶苦茶になっちゃうのよ。マイナスが多すぎるの! だから私は誰とも関係を持ちたくなかったの。当たり前の話よね? 理論的な行動だわ……だって、誰も彼もが私を傷つける! そうでしょう? ……ねえ、私の言っていることわかる? 私の言葉は理解できる?」
いつしか私の言葉は切り刻まれた破片のように、少しも組み合わさることなくバラバラになって零れ始めていた。
健児の穏やかな表情が、徐々に戸惑いの色に染まっていく。
「でも……でも! 貴方は違ったの、違ったのよ! 貴方だけは違うの! 貴方だけがマイナスをプラスに変えるの! ……やっと、そのことに気がついたのよ。九年も経ってやっとわかったの。笑っちゃう話だわ。そう思わない?」
私は声を上げて笑った。自分でもどうして笑っているのかわからない。途中からは笑っているのか泣いているのかさえわからなくなった。
想いを伝えなければ。
……だけど、伝えるってどうすればいいんだろう?
「アヤナ……大丈夫かい?」
「健児! 私には貴方が必要なのよ。必要で必要で必要で必要で……どうしようもなく必要なの。貴方との関係が私には必要なのよ。わかる? 私、とっても恐いのよ。誰かと関係を持つだなんて考えただけでゾッとする話だわ。誰かが自分の心の中に入ってくるなんて考えただけでゾッとする。でも、健児、貴方とだったら大丈夫。私は痛みに耐えられる、痛みを克服できるわ。わかる? 健児……貴方だから痛みに耐えられるの」
「アヤナ?」
「健児。貴方にだったら私は何をされても構わないわ」
私は思い知った。
今まで私は、誰かに何かを伝える為に話したことなんてなかったんだ。
「貴方にだったら殺されたって構わないの」
「ごめん、アヤナ。君の言っていることがよくわからない。もう少し落ち着いて、ゆっくり話してくれないかな? 僕の頭が悪いだけなのかもしれないけれど、君が僕に何を言いたいのかよくわからないんだ」
「私にだって自分が何を伝えたいのかなんてわからないわ。でも、でも貴方に伝えたいことがあるのはわかっているの。私は……私は」
私は健児に抱きついた。彼の存在だけが、私の混乱した感覚の中で唯一確かなものだった。
「離れないで健児……貴方がいなくなったら私は滅茶苦茶になってしまう」
「大丈夫だよ、アヤナ。僕はここにいるから」
健児の声は、酷く遠くから響いてくるようだった。