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レポート  作者: 篠森京夜
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 物悲しいピアノの旋律が鳴り響き、音楽が始まった。

 空気の波が頬を掠め、振動が身体の内側を通り抜けて闇の中へと消えていく。私は自分の身体が音の粒子に貫かれるごとに透明になり、消えていくような気がした。


「健児」

 遥かな奥底で生まれた言葉は、長い時間をかけて水面へと浮かび上がり、音となった。

「……アヤナ」

 私の発した音を聴いて、そこに立った男……健児も音を発した。

 昔と変わらない、少し寂しそうな声。


 彼の印象は九年前とはかなり異なっていた。

 背は高くなり、肩幅も随分としっかりしている。前髪は短く切り揃えられ、その奥には唯一昔と変わらず鋭くて……寂しそうな目が輝いていた。

 どうして私は彼が健児だとわかったのだろう? その理由を明確に述べることはできない。ただ、私にはそこに健児がいることがわかった。タカハラが彼の名前を呼ぶ前から、彼の存在を確信すらしていた。

 夢の中の異常な光景を見慣れたもののように感じ、次に起きる事態を予測してみせるように。私には『健児がいる』ことがわかったのだ。

 健児がいる。

 ……あの健児が。


 健児は私に近づき、右手を差し伸べた。

「やめて……触らないで」

 私の髪に触れようとした手が止まる。健児は少し躊躇った後、小さく笑った。

「君は変わっていないね」

 声を聞くだけで胸が痛い。何故、こんなに痛いのだろう? 

「少し座らないか? 話したいことが沢山あるんだ」

「おい、健児。彼女と知り合いか?」

 私達の隣で呆気に取られていたタカハラが、ようやく話を切り込む隙間を見つける。

「ああ……ちょっとね」

「色々ありそうな『ちょっと』だな」

 タカハラは暫く考え込んでいたが、彼なりに事態の深刻さを量ったらしい。

「後で訳を教えろよ?」

「わかってる」

 健児は短い言葉に敬意と感謝の気持ちを込めて答えた。

「行こうか? アヤナ」

 ここから逃げ出したい。

 恐怖とも不安ともつかない感情が這い上がってきた。


 一つ、また一つ。

 歩みを進めるごとに、私の中から何かが抜け落ちていく。私を支えていた何かが抜け落ちていく。私の中の時間が……巻き戻っていく。

 死刑囚のような足取りで進んでいる自分の姿を、私は客観的に眺めることができた。

 そして。

 健児と席についた時、私は九年前に戻っていた。大人へと成長した健児の前に座ったのは、世界とのずれに怯え震えている……ただの子供だった。

「昔のことについて謝るよ。アヤナ。あの時は随分と君に酷いことをしたと思ってる」

 健児はテーブルの上で両手を組み、話しかけてきた。

「君の事情も考えずに、無理矢理自分の感情を押しつけた。大人気ない行為だったと思ってる。ただ、これだけはわかってほしい。あの時、僕は君のことが好きだった。それは本当だし、決して傷つける気はなかった」

 違う。傷つけたのは私の方だ。

 私はそう伝えたかった。しかし、言葉は出なかった。あらゆる感情と言葉のコントロールは失われ、身につけたはずの技術は一つとして思い出せなかった。こんな時は何を言えばいいんだろう。必要な言葉は? 作るべき表情は?

「怒っているのかい?」

 健児が悲しそうな瞳で私を見た。反射的に首を横に振る。まるで痙攣したロボットのように。

 何か言わなければ。

 こんな時の為に、私は今まで人間の真似をしようとしてきたんじゃないのか?


 私の傍らに誰かが立ち、頭の中に声が響いてきた。

 勝ち誇ったような女の声。

『まずは挨拶でしょう? アヤナちゃん』

 ……そう、挨拶だ。


「こ、こんばんわ」

 健児は戸惑ったようだったが、再び優しい目をした。

「そうだね。何年も会っていないのに馴れ馴れしく触れようとして悪かったよ」

 健児は照れたように笑うと、一息ついて言った。

「こんばんわ、アヤナ。君とまた会えて嬉しいよ」

 第一印象はともかく、健児の雰囲気は昔とあまり変わっていなかった。目の輝きも、よく変わる表情も。それらはその純度を奇跡的に保ちながら、かつて垣間見えた脆さを消していた。

 彼は九年前と変わらず繊細で……強くなっていた。

 ここから逃げ出してしまいたい。

 だが、声が私を束縛する。


『ほらほら、アヤナちゃん? 次は何をするんだっけ?』


「君と別れてから色々とあったよ」

 健児はテーブルの上の一点を見つめながら呟いた。

 おそらくは、こことは違う時間の点を。

「君は知らないだろうけど、あの後すぐに親父の会社が潰れてね。すっかり無一文になってしまったんだ。親父は死んだよ。保険金を残してね……馬鹿な人だ」

 健児は複雑な笑みを浮かべた。それはとても奇妙な笑みで、たった一つの表情の中に多くの相反する感情が込められているように見えた。

「それで僕はお役御免になって世の中に放り出されたってわけさ。でも何とか生きていくことはできた。多くの人と知り合えたし、助けてくれる人もいた。生きていく技術を教えてくれる人もいたし、共に夢を見る仲間もできた。生活は辛かったけど、得られるものの価値を知ることができたよ。みんな、それまで知らずにいたことばかりだった」

 健児は照れたように微笑んだ。

「実は僕は今、駆け出しのカメラマンなんだ。仕事は少ないけど、評価してくれる人もいる。タカハラみたいに雑誌の仕事を回してくれる奴もいる。ありがたいことだよ」

「多くのものを、得たのね」

 私は健児の見つめているものを探したかったが、それは私には見つけられなかった。

 そして私は、改めてあれから九年の歳月が流れたのだと自覚した。

「全てを失ったからね」

「私は失ってばかりだわ」

 私は呟いた。

「あれから九年たったのね……まるで昨日のことのように思えるわ」

「それは僕も同じだよ」

「私のこの九年間は何だったのかしら」

「立派な九年間じゃないか。タカハラから名前を聞いて、すぐに君だとわかったよ。君はもう立派な科学者だ。駆け出しのカメラマンとは訳が違う」

「…………」

「実は今日もタカハラから話を聞いて迷ったんだ。今更君に会っても、もう僕のことなんか覚えていないんじゃないかってね」

 健児は言った。

「でも、一目君に会いたかった。伝えたい言葉もあった。君の成功を心から嬉しく思う。この九年間、君のことを忘れたことはなかったって」

「私も貴方のことは忘れていないわ。……いいえ、忘れられなかったの」

「ありがとう」

 健児は微笑んだ。しかし、私の言葉の真意には気づかなかった。

「踊らないか?」

 健児はホールの方を見ながら言った。

「あまり上手くないんだけどね」

「構わないわ。私も踊れないし……」

 健児が席を立ち、私に手を差し伸べる。

 ホールに向かいながら、私の全ての感覚は彼が握った手に集中していた。健児が今ここにいて、私の手を握っている。その事実が改めて私の中で構成され、意味を成した。

 ……整理が必要だ。

 意味を整理し、対策を見つけださなくてはいけない。この事態を把握し、私自身の感情を制御する必要がある。

 私が何を望んでいるのかを、見つけ出す為に。


『そんなこともわからないの?』

 わからない、わからない……わからないことばかりだ。

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