28
バー専属のジャズバントの演奏が終わると、店内はにわかにざわつき始めた。
ステージの照明が落ち、薄暗い中、朝食男のバンドがステージの上に姿を現す。朝食男はシンプルなTシャツ姿だが、ヴォーカルの痩せた男は黒革の衣装で全身を固め、脱色した長い髪をたなびかせている。まるで海に沈んだ宝を漁りに来た海賊船長だ。
メンバー全員が所定の位置につく。と、金色のスポットライトがステージ上を明るく照らし出し、店内は拍手と喝采に包まれた。
このバンドはタカハラの大学で結成されたバンドであり、今はインディーズで活動しているらしい。バーの雰囲気にそぐわない恰好のバンドであるにも関わらず、友好的な拍手で迎えられたのはその為だ。ヴォーカルの男は崩れきった表情で観客に手を振り、気取った口調で喋っていたが、朝食男がドラムを数回叩くと思い出したように腰に下げたギターを構え、メンバーに向けて手を振った。
しんと静まり返ったステージ上に、ドラムのステイックがたてる小さな音だけが響く。
次の瞬間。
ギターから流れ出た凄まじい音の濁流がバー全体を包み込み、地響きのようなドラムの轟音が爆発した。その凄まじい衝撃に、カウンターを磨いていたウエイターが転倒し、棚の硝子に亀裂が走る。
天井のステンドグラスがビリビリと震えたのが聞こえた気がした。
引き吊ったようなギターの音色が奇妙なほどリズミカルに響き、悲鳴にも似た奇声でヴォーカルが絶叫する。ドラムは機械のような正確さでリズムのループを作り、テーブルの上ではグラスがダンスを踊った。
「……うるさい」
私は一言で評価を下した。隣ではサオリが大きく目を見開いたまま凍りついている。いささかサオリには刺激が強すぎたかもしれない。
……と。
サオリの口が次の形に動いた。
「カ、カッコイイ……」
「だろう? このバンド、結構評価が高いんだぜ?」
声は聞こえなかっただろうが、私と同様に意を解したタカハラが得意げに言う。
「ギターにブルースが入っててカッコイイですね! ジミー・ヘンドリックスみたいです! それに凄いドラム!」
サオリが瞳を輝かせる。忘れていたが、サオリはロックファンだ。女子高時代からレコードを集め、一人で聞いていたらしい。
私は音楽には疎いので、このことに関して話をすることはなかったが。
「特にあのヴォーカルの人、カッコイイですね!」
「ああ、オカダかい? あいつとドラムの奴があのバンドを動かしているんだ。ただ、ちょっと神経質で気が弱いところがあるからなあ」
でもいい奴なんだよ? とタカハラは付け加えた。
私は完全に二人の話から取り残されたので、仕方なくサオリがいいというバンドの演奏を見つめた。先程までの落ち着いた雰囲気は跡形もなく消し飛び、ステージの前にいる者は総立ちで拳を突き上げている。
と、人込みの中、私の瞳に鮮やかな青が飛び込んできた。
少女だ。
活発そうな印象の少女が揺らす、サファイアのように青く透き通った髪。演奏に合わせて高く飛び跳ねるたび、青い光が周囲に舞い散る。
岩礁の隙間を泳ぐ魚のように少女の髪は煌めき、そして人込みの中に消えていった。
バンドの演奏は一時間ほど続いた。
……ノンストップで。
ヴォーカルのオカダは最後に持っていたギターをそこら中に叩きつけて壊し、絶叫と共にステージ上に倒れて担架で運ばれていった。その後、先程のジャズバンドが戻ってきて、滅茶苦茶に荒らされたステージの上で立ち尽くしているのが見えた。
しばらくの後。
「よお、いい演奏だったぜ?」
タカハラが声をかけると、朝食男に肩を借りて歩いていたオカダが振り返った。
「よくねえよ……」
先程までの威勢の良さは何処に行ったのか、沈痛な面持ちで答える。倒れた時に切ったのか、それとも何度か客席に飛び込んだ時の傷か、額に張られた大きな絆創膏が痛々しい。
「俺さあ……これ以上バンドをやっていく自信ねえよ。もう解散しようかって思ってるんだ」
「あんなに受けてたじゃないか」
「理解してくれるのはお前達だけだよ。他じゃ見向きもされない」
「そりゃお前がそう思ってるだけだよ」
朝食男が優しく声をかけ、
「こいつ、ライブが終わるとこうなんだよ」
タカハラが私に小さく耳打ちする。
「これからは、バンドじゃなくてクラブだよ。この店みたいに洒落た店を開くんだよ」
オカダがしょぼくれた声で言った。
「俺が経営して、お前がDJになって皿を回すんだよ」
「わかったわかった」
朝食男はオカダの背中を叩くと、進むように促した。
「じゃあな、俺、もう少しこいつを休ませてくるわ」
「ああ、気を落とすなよ」
私に一瞬ウインクをして、朝食男がオカダを連れて歩き出す。途端、サオリがいきなり立ち上がり、テーブルに思いっきり両手を叩きつけた。
「やめないでください! バンド、やめるなんて言わないでください!」
テーブルの上からグラスが落ち、派手な金属音を立てて床を転がる。
私は驚いた。彼女の今迄の行動パターンからは到底考えられない行動に。
オカダはサオリの声に振り返った。そして、暫くサオリを眺めていたが、小さく微笑んでまた歩き始めた。
「待ってください!」
サオリは強引にテーブルの上を乗り越え、通路に出てオカダの後を追いかけていった。
「……意外なことがあるもんだな」
タカハラが呟いた。
「ほんの小さな数値が全体の結果を大きく変えることはよくあることよ」
サオリの行動を予想できなかったことは、私にとって少しショックだった。些細なことだと思っていた要因が、ある時突然表面に現れて大きな波紋を起こす。そんなこともあるのだと改めて認識した。
「どうやら、世界は僕達が思っているよりも複雑でドラマチックらしいね」
タカハラは落ちたグラスを拾い上げ、乾杯でもするように私に向けて揺らしてみせた。
ステージの掃除が終わり、ジャズバンドが落ち着いたダンスナンバーを演奏し始めた。タカハラが私をホールへと誘う。
私が立ち上がりかけた時、サオリが情けない顔で戻ってきた。
「先輩……さっきはすいませんでした。もしかしてグラスが倒れて濡れちゃったりとか、怪我したりしてないですか?」
「別に」
少し不愛想かもしれない。そう思って、私は表情を改めた。いつも通りに振る舞い、奇妙な行動をした彼女に関するデータを収集すべきだ。
サオリは今までの様子に戻っていた。先程見せた激しい感情は消え失せ、恥ずかしそうに指を絡めている。サオリは上目遣いに私を見ると、小さな声で訊ねた。
「私、先輩の言う通り、もっと男の人……でも、別に誰でもって訳じゃないんですけど……あ、でも、さっきのヴォーカルの人って訳でもないんですよ! そうじゃなくって」
「何が言いたいの?」
サオリは急に顔を上げた。
「男の人と仲良くなるにはどんなふうに喋ればいいんでしょうか?」
いつになく真剣な眼差しが、動揺する私の心を貫く。
……これが、本当にあのサオリだろうか?
「そうね、まずは挨拶ね。こんにちはでも、こんばんわでも何でもいいわ」
適当な言葉が口をついて出た。
「それから、相手が興味を持っていることを探るの。自分も知っていること、興味のあることなら更にいいわ」
サオリが真剣に頷く。
「大切なのは、自分と相手の間にコミュニケーションの回路を作ること。相手に話して楽しい相手だと思わせることが大事なの。人間は臆病で不安に満ちているからね」
「でも。もし、それが上手くいかなかったら?」
サオリの表情が見る間に泣きそうな子供のようになる。私は不快感を押し殺し、適当な言葉に換えて吐き出した。
「それなら、強引にでも相手の懐に飛び込むことね。そうね……キスでもしたら?」
「キス……ですか?」
「男だったら嫌な顔はしないわよ」
引き攣った顔のサオリを残し、私はタカハラの手を取ってその場を離れた。自分でも無茶苦茶な答えだと思う。
「可愛い後輩が取られたから怒ってるね?」
タカハラがニヤニヤしながら話しかけてきた。
「違うわよ」
「君は意外と感情が表に出る」
平手でタカハラの頬を叩いた。タカハラはあまり驚いたようではなかった。
「悪い。機嫌直してくれ」
「……気分が悪い。帰るわ」
「そう言わずにさぁ」
私の機嫌を直そうとしていたタカハラは、ふと何かに気づいて顔を動かし……途端に表情を和らげて声を上げた。
「なんだ、健児。お前も来たのか!」




