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「先輩……私、こういう所は初めてです」
サオリが心細げに呟いた。
「大丈夫よ、私がいるでしょ?」
私達はタカハラが招待したパーティーに参加する為、会場となる建物の前に来ていた。薄暗いコンクリートの階段が地下へと続き、分厚そうな扉の奥から演奏中のバンドの音楽が響いてくる。
「貴女に昔のディスコ全盛期を見せてあげたいわ。こんなもの、あれに比べれば火葬場みたいなかさよ」
「へえ、その頃はいくつだい?」
同行していたタカハラが訊ねた。
「高校生くらい。でも、大人っぽくしてたからわからなかったかもね」
まだ若かったアサギに連れられて、遠く離れた街に遊びに行っていた時代のことを思い出す。タカハラはそれは見たかったなあ、と呟いた。
「でも……私、こういう所は怖くって」
サオリはまるで地獄の底にでも連れて行かれるかのような顔で言った。
「怖かないよ。みんな大学時代のバンド仲間だ。気のいい奴等だよ?」
「サオリちゃん、何事も経験よ。最初は怖くても体験してみればうまくできるものよ。さっきだって最初はあんなに嫌がってたのに途中からは楽しんでたじゃない?」
私の言葉に先程の行為を思い出したらしく、サオリが頬を赤らめる。私と彼女、タカハラの三人はパーティーまでに時間があったので、部屋で少し楽しんでいたのだ。正確には私とタカハラの二人でサオリを玩具にしていたのだけれど。
サオリに対する私の『教育』はかなりの成果を上げていた。元々家庭や社会から押しつけられた価値観しか持っていなかった彼女は、それを壊されたときに置き換わるはずの自分自身の価値観を持っていなかった。だから彼女は、再び私という他人に自分の価値観を与えてもらうことを選択してしまったのだ。私は今まで彼女が属していた社会のルールがいかに欺瞞に満ちたものだったかを教え込み、その後に好き勝手な……私の都合のいいように……倫理をプログラムした。
おそらく彼女は、生まれて初めて家庭という鳥籠から逃れ、自由に羽ばたく強さと知恵を得たと思っているだろう。だが実際には、彼女は私という鳥籠へと飛び込んだだけだ。
サオリが恥ずかしそうに目を逸らし、私の腕にしがみつく。
「貴女はいい子だわ」
私の言葉に、サオリはおずおずと顔を上げ、先生に誉められた小さな子供のように微笑んだ。
「君はいい後輩を持ってるね」
タカハラが耳元で囁く。
「いいでしょう? 今度、貸してあげるわ」
「遠慮しとくよ。後が恐い」
「賢明ね」
私は微笑み、バーの扉を開けた。
パーティー会場となるバー『ヨナ・ホエール』は大学の近くということもあり、飲み会で私も何度か足を運んだことがある。中には半円形に広がったホールと、テーブルが並ぶラウンジがある。ホールには小形のステージがあり、ジャズバンドが演奏しているのがこの店の特徴だ。
天井には荒れ狂う大海原の描かれたステンドグラスが一面に埋め込まれている。波間に揉まれる転覆寸前の船と、その上空に十字に輝く星。つまり、ここは海の底というわけだ。色硝子を通して青く染まった光が、店内を幻想的に彩っている。
席を探して歩いていると、後ろから私の肩を叩く者があった。振り返ると、いつかの朝食男が立っていた。相変わらずのTシャツ姿だ。
「また会うとは奇遇だな」
「この前はごめんなさいね。今度、夕食でもご馳走してくれない?」
「ああ、一晩中でもいいぜ」
朝食男は無精ひげを撫でながら答えた。
「今日は貸切りのはずよ。貴方も呼ばれたの?」
「俺のとこのバンドが演奏するんだよ。もうすぐしたら始めるから聴いてくれよ?」
朝食男は軽く手を挙げると近くにいたタカハラと二・三言葉を交わし、店の奥に消えていった。
「なんだ。あいつと知り合いだったのか?」
タカハラが意外そうな顔を向ける。
「貴方こそ知ってるの?」
「友人のバンドのドラマーだよ。……で、君との関係は?」
「貴方達は兄弟なのよ」
私は笑いを堪えながら答えた。タカハラは暫くキョトンとしていたが、意味を解すとウンザリした顔をした。
「世界中の人達と兄弟になれそうだ」
「いいことじゃない」
「今は俺だけだろうね?」
「私は私、誰のものでもないのよ」
私は軽く笑って受け流し、賑わい始めたバーの中を見渡した。
「先輩は……沢山の人と知り合いでいいですね」
サオリが呟いた。
「私なんか……先輩とかタヤマさん以外には大学で話せる人も少ないし……」
「それは貴女がまだ人との交流に慣れていないだけよ。貴女に必要なのは考えることよりも体験すること」
「そう……でしょうか?」
「そうなのよ。貴女だって、そのうち不必要な感覚を捨てることができるわ」
私はサオリの肩を抱いてゆっくりと言い聞かせた。
「いい? 夜は長いの。楽しむのよ、この嘘だらけの世界をね」