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「花村先輩……」
気がつくと、サオリが私の顔を覗き込んでいた。どうしたの、と訊き返す間もなく、小柄な身体が胸の中に飛び込んでくる。
「先輩」
「サオリちゃん?」
私はサオリの頭を撫でて少し引き離した。彼女の目には大粒の涙が浮かんでいる。
「先輩……昨日はまた教授の所ですか?」
サオリは少し上擦った声で私に訊ねた。私が否定すると、彼女は涙を拭い、責めるような目で私を見据えた。
「嘘です。男の匂いがします」
私の表情から確信を深めたのだろう。きつく下唇を噛む。
「相変わらず鋭いわね。……否定はしないわ」
「やっぱり……!」
大粒の涙を浮かべ、サオリが踵を返して走り去ろうとする。
「待ちなさい。いい子だから!」
私はサオリの手をつかんで引き寄せた。逃れようともがく華奢な肢体を包み込むように抱き締めて、耳に、うなじに、首筋に優しく口づけ、小ぶりな胸にそっと手を被せる。
「貴女に黙って男と寝たのは悪かったわ。でも、別に貴女を裏切っているわけじゃないのよ」
「嘘です。……信じません」
「信じて。私は貴女のことが大好きよ。でも、貴女だけと寝るわけじゃない」
サオリは急に力が抜けたように泣き崩れた。床に突っ伏し、何度も首を横に振る。
「サオリちゃん。私はね、セックスは誰かを理解する為の素晴らしい行為だと思ってる。愛し合うことで別々の人間がより深くお互いを理解し合えるの……それはサオリちゃんもわかってくれたでしょう?」
私は慎重に言葉を選びながら、彼女の身体を愛撫し続けた。
「私はサオリちゃんのことが大好きよ。でも、他にフィーリングが合う人間がいて、お互いにもっと知り合いたいと思ったら、セックスをするのは構わないと思ってる。貴女だってそれには賛成してくれたじゃない?」
「でも……それでも私……!」
サオリが涙に濡れた顔を上げた。
「もっと自由に考えるのよ。つまらない道徳とか、規則なんて無視するの」
私はサオリの頬を拭い、軽くキスをした。
「私達はもっと自由に理解し合うべきなのよ。そうでしょう? サオリちゃん」
「……自由に……」
「そうよ」
私はもう一度サオリを抱き締めた。強張っていた彼女の身体から力が抜けていくのがわかる。
「私達は自由に理解し合うことができる。それは人間に与えられた特権なのよ。いつまでも昔ながらの慣習に囚われ続けるべきではないわ。そんなのは古臭い人間の考えること……貴女を家に閉じ込めようとしたご両親のような考え方……そうでしょう?」
精密機械の調節をする技師のように、サオリの体に耳を当てて反応を探る。興奮は鎮まり、落ち着いてきている。
「そう……ですね。先輩」
さおりが涙を拭きながら呟く。もう一押しだ。私は優しく丹念に彼女の身体のスイッチを操作し、調節を加えていった。
「サオリちゃん。昨日のことは悪かったわ。私も反省してる」
「いいえ、私こそ取り乱して……」
彼女のようなタイプは一度でも自分に否を認めると、それまでと一転して強情に否を主張したがる。周囲から優しくされればされるほどだ。私は優しく……しかし曖昧な言葉で彼女を慰める。話が終わる頃には、彼女は酷く落ち込んだ状態になる。どう考えても悪いのは私の方なのだけれど。
私は小さな子を慰めるように、柔らかく彼女を抱き締め、頭を撫でた。
「少し不安定になってるみたいね。きっと寝不足なのよ、ゆっくりと眠った方がいいわ。今夜の当番は代わりましょうか?」
「いいえ、私がやります」
サオリは慌てたように異を唱えた。
本当に、強情で素直な……可愛い子だ。
私は彼女を抱き締めたまま、耳元で囁いた。
「それじゃあ、二人でやらない? 二人きりで……」
言葉の意味を理解して、サオリの体が緊張する。悪くない反応だ。
今夜は面白いデータが取れそうだ。
私がサオリの説得に用いた話……まるで六十年代のヒッピーのような理屈だが、真剣な表情で口に出してみれば意外と効果がある。あまり深い関係を求めない、好奇心と楽しみだけで動く者は肉体関係を厭わない私の態度に喜んで乗ってくるし、サオリのように純真無垢な少女は呆気ないほど簡単に信じ込む。世間に対する免疫のなさと、封建的な家庭や社会への反発が効果を生むのだろう。しかし、私自身がそれを信じているかと言うと、はっきり言って全く信じてはいない。
セックスだけでお互いを理解できるわけがないことは、私が身をもって実証済みだ。私がこの理屈を振りかざす理由、それは全く逆の考え方……複数の関係を肯定し保持することで、その誰とも一定の距離を置きたいからだ。
私の内側には大きな空洞がある。いつできたのかはわからないが、成長するほどに私の中で育ち、大きくなってきた。そして、時折そこを風が吹き抜ける。まるで全身が凍りつくかのような、冷たい風だ。
私は自分を暖めてくれる存在を求める。
束の間でも、自分の冷たさを忘れさせてくれるものを。
そうして得た温もりを、私は……拒絶するのだ。
どうしてこうなってしまったのだろう。
夜が明けても陽は巡り、再び夜が訪れるように。
一度はあれほど強く求めた者を、拒絶してしまうのだ。
そして再び、私は冷たさから逃れる為に別の存在を求める。その繰り返し……繰り返しだ。
私の中で育った空洞は、今では私の皮膚一枚下まで削り取ってしまっている。
もし空洞がこれ以上育ったら、私はどうなってしまうのだろう。空洞に全てが削り取られてしまうのだろうか? 私が消えた後には何が残っているのだろう。それは目に見えない空洞なのだろうか? いや、壁のない空洞など存在しない。すべての外側を削り取った空洞は空洞ですらない。
ただの無……それだけだ。
「先輩……どうしたんですか?」
我に返ると、サオリが不思議そうな目で私を見つめていた。
「何でもない。少し考え事をしていただけ」
私は空白の時間を埋めるべく、止めていた愛撫の手を動かし始めた。サオリがにわかに反応し、甘い吐息を洩らし始める。私の脳裏を、先程の考えが横切った。
そう遠くない未来、私はこの子を拒絶するのだろう。あの自分でも制御できない感情に押し流されて。私は自分がサオリに冷静に別れ話を持ち出している姿を想像した。またいい加減な理屈を使い、さもサオリの方に責任があるかのように言い包めているのだろう。私はその様子がはっきりと想像できた。
彼女の涙と、最後に抱き締める身体の温もりさえも。
「サオリの体は温かいわね」
私は自らの考えを振り払うように、彼女の全てを感じ取ろうとした。
サオリがか細い声で否定する。
「ううん……とても温かいわ」
彼女の温もりに指を浸すと、サオリは大きく喘ぎ、私にしがみついてきた。涙に濡れた頬が胸に押し当てられ、温かな液体が私の皮膚にまで染み込んだ。