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アサギと別れた頃、私は都心の私立大学の生物学科へと進学することが決まっていた。
歴史こそ浅いものの、最新鋭の研究設備とキャンバス、呆れるほどに高い授業料と偏差値を誇る大学。もっとも、親戚の者達にとっては私が自由にできるはずの財産に比べれば大学の授業料など安いものだったらしく、大学の四年生になる頃には、いっそこのまま院まで卒業して研究職にでも就いたらどうだと提案されたほどだった。
彼らはよっぽど私に故郷に帰ってこられるのが嫌だったらしく、私にとってもそれは好都合だった。私は故郷からの仕送りとアサギの妻から渡された金で、何一つ不自由のない生活を送ることができた。彼女にとっても、やはり私は帰ってきて欲しくない存在だったようだ。
私が故郷を離れる時、こんなことがあった。
「アヤナちゃんも、もう大学生なのね」
居間のテーブルにつき、下宿先の案内を眺めている私の正面に座り、叔母が愛想良く話しかけてきた。家でつけるにしてはきつい香水の匂いが漂ってくる。
私が幼い頃からその傾向はあったが、往年の叔母はいかにも専業主婦らしい小太りの体に、ボリュームのある髪、大型の草食動物のような目と、週に一度ほど爆発させるヒステリーを持ち合わせていた。彼女のヒステリーは大きな問題が起こった時よりも些細な問題が積み重なった時に引き起こされ、その矛先は一番近くにいた者に向けられる。私もよく直撃を食らったものだ。
最近では彼女のヒステリーの誘発源はもっぱら娘のエリカであり、その平均爆発数も増加の一途を辿っている。
「本当に羨ましいわ。うちのエリカなんて……ねえ?」
私は彼女の高学歴嗜好を知ってるので適当にお茶を濁すことにした。実際、この人の前では大学に受かったことを嬉しそうに話さない方が懸命だ。
「昨日もね、エリカに言ったのよ。貴女もアヤナちゃんを見習って、浪人してもいいから後一年くらい頑張りなさいって。だって、学歴が高校止まりだなんってみっともないでしょう?」
「そうでもないと思いますよ。それにエリカさんは確か、専門学校になら行ってもいいって言ってたじゃないですか?」
叔母は笑いながら大袈裟に手を振った。
「服飾の学校に行ってデザイナーになるって? そんなの無理よ。あの子にそんな才能あるわけないじゃない。あの子は大学に行って普通の仕事に就いた方がいいわ」
「……それはそうかもしれませんけれど」
彼女の学歴志向は好きじゃない。
人間には様々なタイプがある。絶対的な価値基準など存在しないし、一つの基準に執着することなど無意味だ。
勉強ができるということに、どれほどの意味があるというのだろう?
まともに相手をしても無駄だとわかっていながらも、私はついつい言葉を重ねた。
「折角本人に行きたいという意志があるんですから、行かせてあげてもいいのではないですか? 才能のあるなしは、やってみてから判断すればいいことですし……」
「服飾なんてあやふやな仕事には就かせないわ」
叔母はきっぱりと言い切った。少しきつい目で私に微笑みかける。
「あの子にはもっと堅実な人生を歩んで欲しいの」
「堅実な人生……ですか」
私はこれ以上何を言っても無駄だと思い、口を閉ざした。
叔母は私の手元にある住宅案内を見ながら呟いた。
「本当にアヤナちゃんは優秀よね。エリカと違って手もかからなかったし、人一倍勉強もできたし……それに昔から一人暮らしのようなものだったから、一人で遠くに行っても大丈夫ね」
叔母は本当に羨ましそうに言った。
「私ね、最近思うんだけど。子供ってエリカみたいに叱ったり甘やかしたりして育てるより、アヤナちゃんみたいに何でも自分でさせた方がいいのかしらね? どう思う? アヤナちゃん」
不快感が体の奥底から込み上げてきた。
目を閉じて心を落ち着け、何とか抑えつけ、努めて冷静に返答する。
「そうですね。確かに、あまり干渉されないほうが子供は楽だと思います」
「そうよね。アヤナちゃんはいいこと言うわ。うちのエリカとは大違い」
叔母が心底納得したように肯く。
……世の中には、嫌味を解せない人間がいる。
「叔母さん」
「何? アヤナちゃん」
私はパンフレットをまとめて立ち上がった。
「放任主義と無関心は違うんですよ」
そして私はきょとんとしている叔母を残して部屋を出た。
私が故郷を離れてから暫くして、エリカが男と家出したと伝えられてきた。相手の男はエリカが付き合っていた暴走族仲間で、私はこの高校中退の男の生き方を非常に高く評価している。
それから一年が過ぎ、私が大学二年生の時、エリカが結婚したという報せが届いた。どうやら二人の間に子供ができた為、認めざるを得なかったらしい。結局、彼女はデザイナーにはなれなかったが、現在は叔母が望んだ以上に堅実な主婦となっている。