19
「前に一人、男の人がいたの」
私は健児のことを口にしていた。
「たいしたことじゃないと思ってた。でも、いなくなったら……いなくなったら、凄く寂しくなったわ」
「ああ、寂しいっていうのは嫌な感じだ」
アサギは隣に寝転んだまま呟いた。
「だから、さっきは彼に抱かれているつもりだったわ」
一瞬の沈黙の後、アサギが引き攣ったような小さな笑い声を上げる。
「僕も君を抱いていたわけじゃない。君のイメージを抱いていたんだ。君の若くて美しいイメージをね」
アサギは勢いよく起き上がった。
「お互いに満たされないものを持ってる。そして淋しいのは嫌いだ。だから、求め合う」
「本当のことが何もなくても?」
「楽しむしかないだろう?」
「全てが終わってしまうまでね」
「いい答えだ」
私が服を着て部屋を出ようとした時、後ろからアサギが声をかけた。
「また会えるかな?」
私は答えずに部屋を出た。
結局、アサギと私の関係は続いた。アサギはその肩書の割には暇な男で、私達は平均すると週に一度の割合で会うことになった。
最初に会った時に私が金を受け取らなかったのが彼の興味を引いたらしく、アサギは私と会う時は贅沢な金の使い方をした。私が知り合いにアサギといるところを見られたり知られたりするのを嫌うことを知ると、彼は私を遠くの街に連れて行き、そこで金の使い方を教え込んだ。
服の選び方や見分け方、化粧の仕方に、会話の流れの読み方まで。それまで閉鎖された世界の中で生きてきた私は、アサギを通じて急速に人間の社会の仕組みを観察し、分析していった。
私は人間の社会というものが、電気信号のやり取りで動く機械のようなものだということを知った。一人一人の人間は機械の部品で、他の部品と信号のやり取りを行いながら全体を動かしていく。何処に向かって動いているのかを知る部品は少ないようだった。制御する為の部品もあるらしいが、機能はしていないようだ。
「まるで水の中に沈んで水面を眺めているみたい」
呟くと、向かいの席でアサギが不思議そうな顔をした。
私達は高層ビルの最上階にあるレストランにいた。窓の外には深い闇が広がり、集積装置にも似た高層ビルが立ち並んでいる。目に見えない情報を乗せて張り巡らされた回路を行き交う車のライトは、深海を泳ぐ魚の群れのように列を成している。
「どうしたんだい?」
「すべての感覚が曖昧なのよ。まるで私という存在が別にあって、それを眺めているみたい」
「君は眺めるのが得意じゃないか。いつもとても客観的だ」
「そうじゃない。これまでは自分の感覚器官を使ってるんだって、はっきりと感じられたわ。でも今は違う。何かすべてに膜がかかって、酷くボンヤリとしてる。まるで……」
何も知らず、何も感じずにいた、あの頃に戻ったかのように。
「それで何か悪いことが起きたかい?」
アサギはメニューを見ながら訊ねた。
「……そうね。前より傷つかなくなったわ。何が起きても他人のことのように思えるの」
「それはいいことだ。とてもね」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
アサギは笑いながら言った。
「ところで、叔父さん達は旅行だったね」
「ええ、あと二日帰ってこないわ」
「なるほど……それじゃあ、時間はたっぷりだ」
確かに私は何も感じなくなってきている。アサギの欲望に満ちた眼差しも、これまで自分を支配し続けてきた空虚な感覚すらも、遥か彼方のもののように思える。
私は目を閉じた。
世界を流れている電気信号が、私の体の中を通っていくような気がした。
今になって考えればわかる。
私は実社会の住人であるアサギとの関係を経て、思春期から抜け出したのだ。
幼い頃から続けてきた私の人間観察と模倣の技術は、ここに来て大きな進展を見せることになる。
目を開けた時、私は十八歳になっていた。
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私達はホテルの一室にいた。
あの日、河原で出会って以来、何度も使い続けてきたホテル。私はアサギに買い与えられた衣服と装飾品で身を飾り、目の前には当のアサギがベッドに座り込んでいる。
アサギは、この二年半で急激に老けたように見えた。
「……頼むから……」
アサギは絞り出すような声で呟いた。
「頼むから、僕と別れるなんて言わないでくれ」
「アサギさん」
私は穏やかな口調で諭すように言った。
「私はもう十八歳よ? 貴方の趣味からすればおばさんだわ。それに……」
アサギに近づき、優しく髪を撫でる。
「それに、別に私を抱いているわけじゃなかったんでしょう?」
「そのつもり……だったんだ」
アサギは引き攣った声で呟くと、私の下半身にしがみついた。
「……そのつもりだったんだよ」
アサギが震える手で下半身をまさぐっているのを他人事のように感じながら、ふと部屋を見回す。初めて見た時には瀟洒で綺麗な部屋だと思ったものだが、今では所々に汚れが目につき、内装も少し時代遅れになってしまっている。時の流れは恐いものだ。
「駄目よアサギさん。もうお別れしましょう。私は春から遠くの大学に行くんですから」
私はスカートの中に入ろうとしたアサギの手を止めた。
「こ、この二年半で君はとても綺麗になったよ」
アサギは私を見上げ、声を震わせた。
「とても綺麗だ。信じられないくらいに」
「貴方のおかげだわ。アサギさん」
「僕が君を育てた……」
「そうね。貴方のお金がね」
「君は僕に感謝すべきだ」
「感謝してるわ」
私はアサギの頬を撫で、もう片方の頬に優しく口づけた。
「でもお別れよ。アサギさん」
私は彼から離れてドアに向かった。
「ま……待ってくれ! アヤナ!」
アサギが慌てて立ち上がり、後ろから私を抱き締める。首筋を這う唇と舌の感覚に辟易しながら、私は言葉を選んだ。
「アサギさん……私は貴方の奥様と約束したんですよ」
「あの女は勝手だ!」
アサギは強引に私を振り向かせると両肩をつかんだ。
「僕のことなんて少しも愛していないくせに、自分だって他に男を作ってるくせに! 教えてやろうか? あの女の酷い趣味を!」
どっちもどっちだ。
「貴方はあの人には逆らえない。でしょう?」
「君とのことは本気だ。だから、ずっと大切にしてきた」
「だから、奥様の気に障った」
「君のことは本気だ」
「貴方に家は捨てられない」
「……捨ててみせるさ」
私は小さく溜息をつくと、これ以上ないほどに優しく微笑み、アサギの顎に指を這わせ、ゆっくりと唇を近づけた。
アサギの表情が歓喜に歪む。
二人の唇が触れるか否かの距離で、私は囁いた。
「アサギさん。もう、全ては終わってしまったんですよ」
私は部屋を出た。
ドアを閉める瞬間、彼が呆然とした顔で立ち尽くしているのが見えた。
私がドアを閉めた途端、中から何かを引き裂くような悲鳴と、壊れそうなほどにドアを叩く音が十数秒間響いた。
それから、何かが呻く声が聞こえた。
まるでそれは、檻に閉じ込められた……そして逃げ出す術を失った獣の啼き声のようだった。
その後、アサギの予言通り好景気は終わりを迎え、彼の会社はとある外資系企業に買収されて事実上その存在を失った。