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レポート  作者: 篠森京夜
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 男に抱かれて私が理解したこと。

 人間の体にはスイッチのような部分があること。

 それらを一定の手順で操作すれば、一定の快感が引き出せるということ。

 私の身体にも同じ機能は備わっていて、そうして引き出された快感に溺れていれば、自分が壊れてしまいそうな不安を忘れることができるということ。

 私がそれを望んだこと。

 自分でも驚く程に、快感を求めたこと。

 つまり、私は悪い子だということだ。


「……貴方なんか嫌い」

 私は毛布を抱き締め、小さく呟いた。

「だろうね」

 男はだらしない格好でベッド脇の椅子に腰掛け、煙草の煙を吐き出した。照明の光に彩られた紫煙が、広めの部屋を満たしていく。

 私は、この匂いが少し好きだ。

「どうして私を抱いたの?」

「どうして僕と寝た?」

 男は意地悪く微笑むと、すまない、と謝った。

「お互い訊かない方がいいこともあるさ」

「そうかもしれない」

「いい答えだ」

 男は微笑んだ。

「貴方の名前は? 何の仕事をしているの?」

「浅木恭介。職業はしがないサラリーマンさ」

「お金。いっぱい持ってるのね」

 テーブルの上に無造作に置かれた、不自然に膨れ上がったアサギの財布を見る。

「儲かってるサラリーマンだからね」

 アサギはおどけた口調で言った。

「世の中には潰れる会社だってあるのに……」

「今は好景気だ。この国全体が沸き立ってきているんだ」

 子供の内緒話のように、小さく楽しそうな声でアサギは囁く。

「水が沸騰するみたいに、そこら中から訳のわからない儲けが出てくる。本当にしっかりとした会社は取り残されて、軽くていい加減な会社がどんどん舞い上がっていく……いつまでも儲かり続けると思ってね」

「酷い話ね」

「心配することはない。そのうち好景気は終わる。沸騰し尽くして後には何も残らない。そうすれば地に足のついていない軽い会社はみんな地面に叩きつけられることになる。もう自分で立つ力だって残ってないさ」

「貴方は軽い会社の人ね」

 アサギは暫く黙った後、言った。

「そうだよ。軽い会社の人間さ」

「どうするの?」

「何が?」

「軽い会社のことよ」

「ああ」

 アサギは両腕を組んで考え込むような素振りを見せたが、すぐにニヤリと笑って、どうしようかな? と言った。

「本当に……どうしようか?」

「どうしてそんなに楽しそうなの?」

「どうしようもないからさ」

 アサギは立ち上がってベッドの脇に座った。

「君はどうして僕が君を買ったのかって言ったよね?」

「うん」

「理由を教えてあげよう。それが君の迷いを解決することになるかもしれないならね」

「どういう……こと?」

 アサギは妙な笑みを浮かべると、質問した。

「君は何歳だい?」

「十五歳。高校一年生」

「へえ、もう少し年上かと思ってたよ」

 意外そうに目を丸くする。

「何か悪いことでもあるの?」

「いや、却っていいくらいだ。ああ、年上に見えるっていうのは大人びてるって意味だ、気にしないでね」

「だから、理由は何なの?」

 少し苛立ち、語気を強める。アサギは少し困ったように微笑み、暫く目を伏せていたが、不意に小さな声で言った。

「僕はね。君くらいの……十代の子じゃないと駄目なんだよ。セックスの対象としてね」

「どうして?」

「それは難しい問いだ。僕自身知らないうちに、いつの間にかこうなっていた。本当に何故だろうね?」

「…………」

 アサギは少し笑った。

「言い訳するつもりじゃないが、これは仕方のないことなんだよ。そりゃあ僕だって、これがいけないことだってことはわかってる。僕くらいの年の男が君みたいな年の女の子に手を出しちゃいけないってことは……ましてやセックスの相手として買うなんてことはね。でも、これは仕方のないことなんだ」

 アサギは私の右足を握ると、指の間にキスを繰り返した。

「僕は今年で二十九になる。妻もいる。年に数回だって愛し合わないけどね。ご存知のように仕事もしてるし、実はそれなりに高い役職についている。信じられないことにね」

 アサギは次第に舌を高い位置に這わせつつ、話し続けた。

「社会的な責任ってやつが問われる頃だ。おまけに僕は社会的に成功してるってことになってる」

 アサギは唇を離すと、ベッドの上に寝転んだ。

「……でも、僕は駄目だ」

「何が駄目なの?」

 アサギは胸に手を当てて呟いた。

「僕には何かが足りない。立派な大人ってやつになるには何かが足りないんだ。そしてそれが何なのかは僕にもわからない。でも、『ないものがある』ってことは感じられる……それは君も同じじゃないのかい?」

「何が?」

「自分には何かが足りないってことだよ」

「……うん」

 私は暫く黙ってから肯いた。

「そうね。私には何かが足りない。でも、どうすればいいの?」

 私は寝転んだアサギの上に手を這わせた。

「どうすれば私は人間になれるの?」

「人間になれる……か。まるでピノキオだね」

 アサギは微笑むと私の手を取った。

「僕も昔はよく迷ったよ。どうすればまともな人間になれるのかってね。でも、最近になってわかったことがある」

 突然起き上がり、私を押し倒す。

「それはね。結局、何も悩むことはないってことなんだよ。この国にまともな大人なんて一人もいない。君や昔の僕が考えていた『普通の人間』なんてやつは、実は一人もいやしないんだ」

「……まさか」

「いいや、そうなんだよ。君はまだ知らないだけだ。この世の中は穴だらけなのさ。みんなスカスカで、本当に重要なことなんて何もありはしないんだ」

 アサギは楽しそうに笑うと、恐ろしいほどの正確さで私の快感のスイッチを探り出し、それを的確に操作し始めた。

「だ、だったら……」

 襲いくる快感に必死に抵抗しながら、悲鳴のような声で訊ねる。

「どうすればいいの? 私は……何をすればいいの?」

「楽しめばいいんだよ。この世界を不完全な体のまま楽しめばいい。傷が痛んでも、息が苦しくなっても……そんなことは忘れてしまえばいい。この世界を楽しむんだ。いつか綻びが大きくなって、完全に壊れてしまうまでね」

 アサギは私の耳に舌を這わせ、囁いた。

「この世界を楽しめばいい。全てが終わるまで」

 私はいつしか、自分の体がアサギを求め始めていることに気づいていた。いや、体だけではない。私全体が彼を求めているのだ。


 ……もう、いいじゃないか。

 心の中で誰かが呟いた。

 私の足元には、いつだって大きな黒い穴がぽっかりと空いている。そして、私はその上を漂っている。

 これ以上、訳のわからない不安に怯え苦しむことはない。怖がることはない。何も気にしなくていいんだ。そのほうが楽だろう?


「……うん」


 私は答えた。


 私は昏い奈落の底へと落ちていく。

 ふと、気づいた。


 この暗闇……健児の温もりに似ている。

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