17
夏休みが終わり、季節はもう秋になっていた。暖かな陽射しの中、風は冷たい水のように私の体を掠め、流れていく。高く鮮やかな空の端に、白い雲がたなびいている。
秋の空は何処か心を締めつける。手をかざして空を見上げ、私は目を細めた。
気がつくと、私は駅の前に立っていた。
高校は叔父の家から駅を挟んで正反対の場所にあり、徒歩で通学するにはかなりの時間がかかる。通学には町の外周を走る循環系のバスを利用していた為、普段の生活で中心街の駅に来る必要は全くない。
しかし、私は時折駅を訪れていた。
駅前の広場、木陰のベンチに腰掛けて、私は改札口を眺め続ける。今の電車で着いた者の中に、痩せて髪の長い……いつも不思議な輝きを湛えた瞳で笑う少年がいないだろうか?
身勝手な考えだということはわかっている。私が彼を拒絶したのだ。今になって会いたいと願ったところで、そんな想いが聞き届けられるはずはない。
それに。
……それに。
もしも仮に、もう一度彼に会うことができたとしても。
私は自分の気持ちを伝えることができるだろうか? 私には貴方が必要なのだと、傍にいて欲しいと言えるだろうか? ……いや、できないだろう。きっとまた同じ事を繰り返し、彼を拒絶してしまうに違いない。
それでも、私はもう一度彼に会いたかった。会ってもう一度抱き締めて欲しかった。
私の順序は滅茶苦茶だ。
私は何故に人間が社会を作るのかを理解した。人間はあまりに弱く、一人では生きられない。だから他の人間を求めるのだ。
人間はあまりに弱い。
そして私も、その弱い人間と同じ。
人間は一人では生きられない。
私も一人では生きられないのだ。
私は電車を待つのをやめ、駅を後にした。
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「なあ君、いい天気だよな」
男が声をかけてきた。
私は町の中心を抜けて河原に出ていた。上流に向かい、三本目の橋を渡った所に叔父の家はある。私はこのまま帰るつもりだった。
「何か御用でしょうか?」
振り向くとサラリーマン風の男が立っていた。背が高く、身なりはいい。年は二十代後半といったところか。
男は暫く私の顔を見つめると、咥えていた煙草を指に挟み首を傾げた。
「ん? いや、いい天気じゃないかと思ってね」
「……そうですね」
私はちらりと空を見上げ、そのまま立ち去ろうとした。
男が少し駆け足で私の隣に並ぶ。
「ねえ、君、学校は?」
「体調を崩したので早退しました」
「何か嫌なことがあったの?」
「どうしてそう思うんです?」
男は少し目を細めると、煙草の煙を吐き出した。
「何となく……ね」
「そんなことありません」
私は早足に男から離れようとした。しかし、男は依然として私に追いついてくる。
「僕は昔からこういうことには勘が鋭くてね。何となく追い詰められてる人間がわかるんだよ。口調とか、体の緊張具合でね」
男は蛇のような視線を私の身体に絡ませた。
「君は何かに追い詰められている。ところが、それが何かわからない。そうだろう?」
「違います!」
私が振り払うように投げ出した手をつかみ、男は笑った。
「人生を楽しむ方法を知りたくないかい? 今よりももっと楽しく、そして楽に生きられる方法だ」
男の真意を測りかね、そのとぼけたような表情を凝視する。
……と。
男は唐突に表情と口調を改め、言った。
「君を買いたい。金なら幾らでも出す。君にはそれだけの価値がある」
「ありません。そんなもの」
「だったらどうなってもいいだろう?」
男が小さく笑う。私は空いている左手で男の頬をひっぱたいた。
「……悪いことを言ったね」
男は苦笑混じりに溜息をつくと、私の手を離して頬を撫で、手を振って元来た道を戻り始めた。
冷たい風が髪を乱した。
足元から、言い知れない冷たさが這い上がってくる。
壊れてしまう。
このままじゃ壊れてしまう。
男につかまれていた手首が、少し暖かい。
「…………ねえ」
「何だい?」
男が振り返る。
「教えてくれる?」
「……勿論」
男は嬉しそうに笑うと、煙草を川の中に投げ入れた。
そのときの男の表情がとても子供っぽくて、私はつい微笑んでしまった。
「私って悪い子だ」
私は呟いた。
「どうして?」
男が私の上に覆い被さりながら訊ねる。
「いつもだったら数学の授業を受けているのに」
「次の時間は?」
「歴史の授業。定年近くのおじいさんが、ずっと小さな声で喋ってるの」
「それならこっちの方が有意義だ」
男は私の胸にキスをした。
「でも、私は悪い子なの」
「そうかな?」
「……そうなのよ」
私はホテルの天井を見つめながら、静かに快感の海に沈んでいった。