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中学を卒業した後、私は高校に進学した。大学への進学率が高いと評判の、理系の進学クラス。従姉妹のエリカも同じ高校だったが、彼女は一般のクラスだった。
居候の身でもあることだし、私は高校を出させてもらえれば十分だろうと考えていた。大学に進学するには多くの資金が必要となる。まずは卒業と共に就職して一人暮らしを始めることが、その後の選択肢を広げることになるだろうと。
しかし、事態は思わぬ方向に進むことになる。幸運と言うべきか、母方の親戚の者が私の進学を援助しようと言い出したのだ。元々母方の家には高学歴志望の傾向が強く、医者や教授といった肩書が家系の中に含まれることを望んでいた。しかし如何せんそれを実行できる者がおらず、私に白羽の矢が立ったというわけだ。
私の母もこの家の者にしては突然変異のようによくできた子で、親戚の者はかなりの期待をかけていたらしい。その英才教育ぶりや凄まじかったと、叔父が一度洩らしたことがある。
しかし母は一流私学高校を卒業後、父と共に姿を消した。
おそらく母は、周囲から寄せられる過度の期待に耐え切れなくなったのではないだろうか。私には母に関する記憶はないが、そんな風に考えることがある。その後も何人かが都会の大学に送り込まれたらしいが、大成した者は一人としていないようだ。
高校に進学した時、私は初めて母方の本家へと連れて行かれた。一家の恥晒しである母、その娘の私がこの家に呼ばれることは、それまで一度としてありはしなかった。
私も別に行きたくはなかったのだけれど。
母方の本家は叔父の家よりも更に大きな木造の屋敷で、一見すると古い寺のようだった。線香臭く薄暗い廊下を通され、襖を開け放した広い部屋に出る。そこには何人かの老年の男と、大きな布団に寝かされた小さな老女の姿があった。皺は多いが透き通るように白く、赤みの差した肌の老女……祖母は起き上がらぬままに顔を向けると、黒真珠のような目で私を見た。
「お前がアヤナか。確かに娘によく似ている」
祖母が手を振り、他の者を下がらせる。広い部屋に二人だけになると、私は布団の傍に両膝をつき、丁寧に頭を下げた。
「花村綾菜です。お婆様」
「……ふん」
私の言葉に、祖母が軽く鼻を鳴らす。
「何かお気に障ることを申し上げましたでしょうか?」
少し気になり、祖母の様子を覗う。もしかすると『花村』の性を名乗ったのがまずかったのかもしれない、そう思った時。
互いの視線が交錯した。
これまで生きてきた中で、これ程までに冷たく貫くような目を見たことはなかった。祖母の視線が鋭い氷の刃となって、私の胸に突き刺さる。
私は幽かに身体を強張らせた。
「……ふん」
祖母はもう一度鼻を鳴らすと、視線を逸らして呟いた。
「お前、自分の母のことは知っているか?」
「いいえ、ほとんど何も知りません。家を出て父と一緒になったとしか」
「だろうな」
祖母の視線から冷たさが消え、此処ではない何処かへと向けられる。
「あれは不憫な子でな。生まれた時に悪い相が出た」
「相? 占いですか?」
「古い家の習慣だ。人間はよくそんなものに頼る」
祖母が私と同じ『人間は』という言い方をしたので、私は少し可笑しくなった。
「それで……悪い相と言うのは?」
「下らん話だ。この子はいずれ化け物になると出た。この世に多くの災いをもたらす化け物だそうだ」
「化け物?」
「化け物、物の怪、怪物……そんなものだ。はっきりとした言い方をしないのがまた憎らしい……」
祖母は忌々しげに鼻を鳴らした。
「しかし、一つ解決策があるとも言われた。化け物になるかどうかは、この子の心次第だと……つまり、この子をきちんと育て上げれば化け物にはならぬとな」
「御伽噺のようですね」
「御伽噺だ。しかし、それを真に受ける者も多かった」
祖母は目を伏せ、一つ息をついた。
「疑問に思っておるのだろう。それならば何故、母は家を出たのか……とな」
「……はい」
「儂は、努力をしたつもりだったのだ。あの子を何処に出しても恥ずかしくない立派な子に育て上げた……つもりだったのだ」
祖母は私に目を向けると、あの子がどう思っていたのかは知らんがな、と付け加えた。
「しかし、あの子は家を出た。そしてお前が帰ってきた……と言うわけだ。アヤナ」
「……ならば、私は化け物の子でしょうか?」
祖母の瞳が幽かに見開かれる。しかし、それはすぐに元に戻った。
「確かに、お前のことを厄介に思っておる者は多い。別に化け物の子でなくともな。今度の話も、反対する者は多い」
「どうして私を援助すると?」
その問いには答えず、祖母が近くに来るようにと言う。
「冷たい目をしているな。お前の母を最後に見た時も同じような目をしていた」
「…………」
「金のことは心配するな。他のボンクラ共に渡すよりは遥かに有用だ。それにお前はいつまでもここにいるべきではない」
祖母が目を細め、私に向かって手を伸ばす。
だがその冷たい手が私の頬に触れた瞬間、私は反射的に祖母の手を振り払っていた。先程の冷たい視線の感触が甦ったのだ。
「…………」
「申し訳……ありません。身体に触れられるのは、嫌いなんです」
流石にまずいことをしたと思い、素直に謝る。しかし祖母は怒ったようではなかった。
「構わぬ。アヤナ、もう下がってよい」
「…………はい」
祖母が目を閉じたのを確認し、丁寧にお辞儀をして立ち上がる。
そして廊下へと続く襖に手をかけたとき、後ろから祖母が呼んだ。
「アヤナ」
「何でしょうか、お婆様」
振り向くと、祖母は目を開けて天井を見つめていた。布団からはみ出した片手は、まるで枯れ枝のように節くれ立っている。
「見てくれ、儂の手を。この年になっても子供のあやし方も知らぬ手だ」
「…………」
「お前の母は儂が抱こうとすると、いつも怖がって逃げたものだ。すまない、アヤナ。あの子をあんな風にしたのは儂の責任だ」
祖母は再び目を閉じた。
「お前にも迷惑をかけた。アヤナ、怨むならば儂を怨め……老い先短いこの命なら、いつでもくれてやる」
閉じられた瞼の奥から、一筋の涙が流れ落ちる。
「お婆様。私は自分の境遇を怨んだことは一度もありません」
私は答えた。
そう、私は一度も誰も怨んだことはない。そもそも怨むという感情さえ、最初は理解できなかった。全ては観察の対象なのだから。
「それに私、お婆様のことは嫌いじゃありません。この家の人間の中では一番……興味深いです」
私の言葉がどのように伝わったのかはわからない。祖母は数回頷いて私に背を向けた。
私はしばらくの間、どうしていいのかわからず立ち尽くしていたが、祖母が黙ったままなので軽く言葉をかけてから部屋を出た。
数週間後、祖母が亡くなったことが知らされた。祖母の遺言には、遺産の中から私が望むように金を使ってよいと書かれていたので、葬式の席では私は叔父を含めて親戚中の者から矢のような視線を浴びることになった。どうやら年配の者の中には、私が本当に家に災いをもたらす化け物だと信じている者もいるらしかった。
私は親戚一同の前で、最初の約束通り、大学進学の援助だけでよいと言った。遺産を相続するつもりはないが大学には行きたいので、せめてその分だけでも援助して欲しい、と。
私に遺産を好きにされたくなかった叔父は、文句なしにこの話に飛びついた。この時の彼の顔はなかなか興味深いものがあった。私はそれまで、これ程話していることと顔に浮かぶ表情が食い違っている様を見たことがなかったからだ。
私は祭壇の写真を見ながら手を合わせ、一度しか会わなかった祖母のことを考えた。
彼女は私のそれまでの生涯で初めて出会った、自分に近いタイプの人間だったのかもしれない。そういった意味で、祖母は本当に興味深い存在だった。もう少し話をしてみれば良かったかもしれない。そんなことを思ったのは始めてだった。
祖母との出会いで私が得たことは三つ。
私はこの家を離れるべきであるという確信と、祖母が開いてくれた新たな道。そして残りの一つは、自分が化け物だという概念だ。私はこの考えを気に入り、後々まで心の支えにしてきた。
自分は化け物なのだから、と。
それはなかなかに愉快な想像だった。