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レポート  作者: 篠森京夜
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 蜘蛛の夢を見た。

 蜘蛛は私の体に這い上がり、首筋をまさぐる。周囲の気温が凄まじい勢いで下がり、壁が凍りつく。吐息も、喉も凍りつき、息ができなくなる。

 天窓から射し込む光だけが、ますます透明に、強くなっていく。頭の中に響くノイズは一千万の狂人が歌う讃美歌へと形を変え、鼓膜をズタズタに切り裂いた。

 私はベッドを離れて光の彼方へと向かう。肉体は引き裂かれ、その残骸の中から私の魂だけが鉤爪によって引き摺り出される。地上を離れ、遥かなる天空の高みへと昇ってゆく……それは全てが消えてなくなるほどの歓喜だ。

 この汚れた世界から逃れ、光に満ちた世界へ……そこでは全てが許される。

 だが次の瞬間、満ち満ちていた光は失われ、私は地の底へと堕ちていった。


 目を覚ますと、本当に切り刻まれたかのような痛みが全身を襲った。

 自分の手足が遠くにあるように思える。

 手足には血が一滴も通わず、神経も切断されたようだ。

 酷く……寒い。

「よお、起きたのか?」

 隣に寝ていた男に声をかけられ、私は上半身を起こした。

「腹が減ったな。朝食を作ってやるよ」

 まだ呆然としている私の隣で、男は筋肉質な上半身にきつめのTシャツを着て立ち上がった。無精ひげの生えた顎を擦りながらキッチンへと向かう。

「朝はパンか? 目玉焼きはどれくらいの固さがいい?」

「……朝食?」

 私はボンヤリとした頭で事態を把握しようとした。

 とりあえず、こいつは誰だっけ?

「おいおい、忘れたのか? 昨日言ったじゃないか。俺の作った朝食が食べたいって」

 男が卵を二つ手に持ちながら振り返る。思い出した。この男は昨夜飲みに行った店で知り合ったのだ。何でも世界一の朝食が作れるらしい。

「いいか? 一日の食事の中で朝食が一番大事なんだ」

 昨夜、男は言った。

「朝食は一日の最初のエネルギー源だ。いい朝食さえ食べれば一日はつらつと仕事ができるし、楽しい気分で過ごすことができる。そして朝食はそのままエネルギーになるから夕食のように太ることもない。食べるなら朝食、夕食じゃない。そして、俺は世界一の朝食を作ることができる」

「世界一の朝食って?」

「食べればわかる」

 男は自信に満ちた声で答えた。

 朝食を美味しく食べるには夜の間にお腹をすかしておくのが一番だ。そして、その為には十分な運動が必要となる。私達は店を出ると、すぐに私の部屋で運動を始めた。

「お前、コーヒーか紅茶、どっちがいい?」

「コーヒー。ブラックで」

 私はあくびを噛み締めた。

 運動量は十分だが、睡眠時間は不十分かもしれない。

 実際のところ世界一の朝食などどうでもいいのだ。そんなものは男と夜を過ごす口実に過ぎない。私の目的は昨夜の時点で達成しているし、男も期待した役割は十分に果たしてくれている。しかし、本当に台所の方からいい匂いが流れてきたので、私は男の料理に少し興味を抱いた。

 それにしても、本当に名前は何だったっけ?

「お前、大学生だろう? 学校はいいのか?」

 男は慎重にコーヒーメーカーをセットしながら訊ねた。

「院生よ。午後からのゼミに出るわ」

「そりゃよかった。時間がないから朝食を食べないのは一番いけないことだからな」

 男が真剣な顔で頷く。

「この国の仕事はもう少し遅くに始まるべきだ。それから皆がもっと早起きできるようにでかい目覚まし時計を町内に置くことだな」

「興味深い意見だわ」

 私はテーブルの上に並べられた料理の数々を眺めた。

 自慢するだけのことはあり、男の料理の腕は確かだった。見事な狐色に焼き上げられたトーストに、寸分の狂いもなく丸い半熟の目玉焼き、ハムサラダ……そして香辛料の効いた肉料理。昨夜何をゴソゴソしているのかと思っていたら、下準備をしていたらしい。

「朝から肉料理?」

「胃腸ってのは起きて十分もすれば動くようになる。腹、空いてないのか?」

「空いてるわ。あれだけ運動したんだから」

 私は微笑んで料理に箸をつけた。私は食べ物の味に無頓着だが、確かに男の料理は美味しかった。世界一かどうかはわからないが、少なくとも私の知る限りでは一番だ。

 私の評価に、男は少し照れたように笑った。


「さっき酷くうなされてたが、大丈夫か?」

 食事の後、男が訊ねた。

「大きな声を出すもんだから目が覚めた。目覚ましがわりにはなったがな」

「夢を見るのよ」

 私は男の言葉を遮るように呟いた。

「小さい頃からね」

「尋常じゃねえうなされかただったぞ? 何処か悪いんじゃねえのか?」

「……そうね、何処か悪いのかもね」

 カップを傾け、揺れるコーヒーをぼんやりと見つめる。黒いコーヒーに浮かぶ白いミルクの渦を見つめていると、不意に夢の中の寒気が蘇ってきた。

「……寒いのよ」

「夏風邪か?」

「そうじゃない。でも、寒いの。時々こんな風に物凄く冷たくなる。まるで世界が凍りついたみたいに」

「今日の最高温度は三十度を越えるって言ってたぜ?」

「そうじゃないのよ」

 私は自分の体を抱き締めた。

「何かが寒いのよ」

「大丈夫か?」

 ぶっきらぼうだが、心配そうな声。

「うん……大丈夫よ」

 私は顔を上げ、微笑んだ。

「ねえ、食後の運動をしない?」

「病気の女を抱くような真似はしたくねえな」

「大丈夫だってば」

 私は立ち上がり、薄いパジャマを脱ぎ捨ててベッドに横たわった。

「世界一の朝食なんでしょ? だったら、消化するまでちゃんとつき合ってよ」

 男はしばらく考え込むと立ち上がって私の隣に座った。

「どうも食べられてるのは俺のような気がする」

 私は男の身を横たえ、ゆっくりと首筋に舌を這わした。

「……おまけに中毒になりそうだ」

 男は私を抱き締めた。その逞しい腕力で、バラバラになりかけていた私の体が再び一つに結びつく。

 燃え上がる情欲の炎が、凍りついた体を溶かしていく。

 この温もりがなければ凍死してしまう。

 男に抱かれながら、私は本気でそう思った。


 かっきり十一時に男は部屋の外に出ていった。正確には私が追い出したのだが。

「つれねえなあ」

 男はドアに手をかけて止めた。

「約束は十一時までよ。昨日言ったでしょう?」

「だけどよお」

 頭をぼりぼりと掻き、ふと何か思いついたように顔を明るくする。

「世界一の昼食と、世界一の夕食を食べてみたくないか?」

「遠慮する」

 私は一気にドアを閉めた。ドアの外で男が苦笑したのが聞こえた。

「随分と冷たい女だ」

「その通りよ」

 男は二回軽くドアを叩くと、あばよ、と言い残して立ち去った。

 今日の男は聞き分けがよくて助かった。酷い時など丸一日ドアの前に居座られたことがある。

 カーテンの隙間から男の姿が見えなくなるのを確認し、私は支度を済ませて部屋を出た。

 澄み切った初夏の青空が広がっていた。暑くなると言っていたが、日陰はまだ涼しい。私は小型の鞄を肩にかけ、マンションの階段を降りた。


 健児との別れから、九年の月日が流れていた。

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