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レポート  作者: 篠森京夜
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 午前中の補習の間、私は自分の取るべき行動について検討し続けた。

 幾つかの案を提示した後、ある結論に達する。

 何故彼が私に影響を与えるのかを突き止め、分析すべきだ、と。

 それは私自身の未発見の要素を確かめる為でもあった。


 補習の後、私は小屋に戻らず河原を訪れていた。

 冷静に考えれば、彼が再びこの場所に姿を現すと決まっているわけでもない。私は彼が何処にいるのか知らない。本当にこの町に滞在しているのかもわからない。私は馬鹿げたことをしている。雑木の茂みの中に入りながら、私は考えた。

 本当に私は馬鹿げたことを……。

「アヤナ」

 不意に誰かが後ろから抱き締めた。

 少しかさついた唇が首筋に触れる……この感触には覚えがある。

「やめて! ……やめてよ!」

 私は健児の手を振り解いた。

「勝手に触らないで!」

「それは……悪かった」

 健児は小型のペットボトルを持った手で首筋を掻いた。

「ずっと君を待ってたんだ。それで嬉しくってね」

 それから彼は直接ペットボトルに口をつけ、一口飲んだ。

「……どうして、ここで待ってたの?」

「君にまた会いたかった」

 彼は即座に答えた。

「もう一度君と話がしたかった。もう一度君の声が聞きたかったんだ」

「不愉快だわ」

「その怒ったような声が聞きたかったんだ」

「…………」

 健児は小さく微笑んだ。

「君も同じ気持ちじゃないの?」

「ここは私の場所よ。私がいつ来ようと私の勝手よ。私は貴方にここから出ていって欲しいの」

「僕はずっとここにいたい。君と一緒に」

「冗談じゃないわ!」

 私は叫んだ。

「貴方なんか顔も見たくない。昨日は昨日よ!」

「アヤナ」

 健児は表情を曇らせ、私の手をつかもうとした。

「やめてよ!」

 私は健児の手を思いきり叩いた。大きな音がした。

「……昨日は『構わない』で、今日は『やめて』か……順序が逆だね」

 健児は手を摩りながら呟いた。

「君は本当に変わってる」

 ……自分でもそう思う。

 健児は草の上に寝転ぶと、ポケットからタバコの箱を取り出した。

「座りなよ。別に僕だって君の体が目当てで来たわけじゃない。……多分ね」

 健児は昨日と同じように唇でタバコを抜き取った。

 私も座った。

 ただ、彼からどれくらい距離を取ればいいのかわからなかった。

「昨日は嬉しかった」

 一つ大きく煙を吐き出して、健児は呟いた。

「何が?」

「君が僕を受け入れてくれたことがさ」

「受け入れたわけじゃないわ」

「そう? ……それでも僕は嬉しかった。嬉しくって涙が出そうになった。それくらい嬉しかったんだ」

「貴方……泣いてたわよ?」

「……本当?」

 それは困った、といった顔で彼は少し考え込んだ。

「昨日……どうして『ありがとう』って言ったの?」

 私は昨日からずっと疑問に思っていたことを訊ねてみた。

「キスできたから? 女の子とキスしたことがそんなに嬉しかったの?」

 健児は流石にこの質問には驚いたようだったが、しばらく黙った後に呟いた。

「それはまた直接的な質問だね」

「私は貴方を観察しているの」

「そうだったね」

 健児は再び口を閉ざした。風のない茂みの中がタバコの匂いで満たされていく。

「時々、自分が駄目な人間だと思うことがある」

 不意に、健児が口を開いた。

「自分が酷く薄っぺらくなった気分だ。自分のやっていることが全く意味のないことに思えてきて……何をやっても無駄なように思えてくるんだ。もっとも、最初からたいしたことをしているわけじゃないんだけどね……そしてすべてにやる気がなくなってくる。ほんの些細なことでもやり始めるのが面倒になる。それでただボンヤリと生きる。何もしない……でも酷く疲れる。本当に疲れる。多分、何もしないって事に疲れてるんだね」

 健児は自嘲気味に笑った。

「疲れて、また何もできなくなる……悪循環だ」

 私は何も言わなかった。

「何かに自分が追い詰められてる気がする。でも、それが何なのかわからない。ただ、追い詰められてる気がする。逃げ場もない。何処に逃げ出せばいいのかわからない」

「それって貴方のお父さんの問題が原因?」

「何だ、気づいてたのか……確かに、僕の家はやばいことになっている。詳しくは言わないけどね。でも、これはそれ以前からの問題なんだ。親父のことは怨んでない。自分の問題なんだ」

「その感情はうまく理解できないわ。理論的じゃない」

「そうかもしれない」

 健児は酷く虚ろな口調で続けた。

「時々、自分の中に大きな穴が開いているような気がするんだ。自分には何かが足りない気がするんだ。そしてその穴は酷く寒い。こんな夏の日でもね」

 健児は体を丸めた。

 ……まるで本当に凍えているかのように。

「こんな気分がずっと続いてた。自分に足りないものをずっと探してた……そして君に出会ったんだよ、アヤナ」


「私達はこれ以上関係を続けるべきじゃないわ」

 私は反射的に自分の心に防壁を巡らした。

 これは私の本意じゃない。私は健児に会いたかったはずなのに。

「君に会った時、凄くドキドキした。君こそ僕が探していた人だと思ったんだ。そして君が僕を受け入れてくれて本当に嬉しかった。……本当に嬉しかったんだよ」

 静かな目で健児は言った。

「僕には君が必要なんだ。君とは昨日会ったばかりだ、でも僕は……」

「……やめて!」

 次の瞬間、私は立ち上がり茂みの外へと駆け出していた。


 何かはわからない。でも、何かが変わってしまう。

 私は家に向かって坂道を駆け下りていた。後ろからは健児が追いかけてくる。

 靴が乾いた小石を蹴り飛ばし、巻き上がった砂煙が喉をひりつかせる。

 私は走っている。

 ……でも、どうして?


「待ってくれ、アヤナ!」

 家に続く階段を駆け上がろうとした途端、追いついてきた健児が私の腕をつかんだ。二人の靴が勢いよく白い砂煙を巻き上げる。

「離して! 離してよ!」

「アヤナ!」

 健児が叫んだ。その声は腕に食い込んだ指のように私の心に食らいついた。

「……どうしてだよ」

 呟き、健児は私の身体を抱き寄せた。昨日と同じ汗の匂い。何故か酷く懐かしい気がする。こんなに細いのに、何処までも力強い彼の腕が私を包み込む。

 一瞬、自分の身体が壊れそうな気がした。

 そして、そうなってしまえばいいのにと思った。

 ……しかし、次の瞬間、私は力の限り健児を拒絶していた。

「離して!」

 私は健児の腕を振り解くと、一気に玄関に駆け込んだ。

「……どうしてだよ」

 健児は大きく息をつきながら私を睨んでいた。

「どうしてだよ!」


「……わからない」

 呟き、私は玄関の戸を閉じた。


 今でも、どうして健児を拒絶したのかわからない。私は彼に抱かれるべきだったと思う。後に彼の身に降りかかることになる不幸を考えれば。

 彼は私を求めていたし、私も彼を求めていた。しかし私は恐かった。彼と結ばれるのが恐かった。そして私は逃げた。私はどうして逃げた? 幸せになれるはずの道から。何故逃げた? 目の前に開かれた可能性から。


 健児はそれから二週間、姿を見せなかった。

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