12
午前中の補習の間、私は自分の取るべき行動について検討し続けた。
幾つかの案を提示した後、ある結論に達する。
何故彼が私に影響を与えるのかを突き止め、分析すべきだ、と。
それは私自身の未発見の要素を確かめる為でもあった。
補習の後、私は小屋に戻らず河原を訪れていた。
冷静に考えれば、彼が再びこの場所に姿を現すと決まっているわけでもない。私は彼が何処にいるのか知らない。本当にこの町に滞在しているのかもわからない。私は馬鹿げたことをしている。雑木の茂みの中に入りながら、私は考えた。
本当に私は馬鹿げたことを……。
「アヤナ」
不意に誰かが後ろから抱き締めた。
少しかさついた唇が首筋に触れる……この感触には覚えがある。
「やめて! ……やめてよ!」
私は健児の手を振り解いた。
「勝手に触らないで!」
「それは……悪かった」
健児は小型のペットボトルを持った手で首筋を掻いた。
「ずっと君を待ってたんだ。それで嬉しくってね」
それから彼は直接ペットボトルに口をつけ、一口飲んだ。
「……どうして、ここで待ってたの?」
「君にまた会いたかった」
彼は即座に答えた。
「もう一度君と話がしたかった。もう一度君の声が聞きたかったんだ」
「不愉快だわ」
「その怒ったような声が聞きたかったんだ」
「…………」
健児は小さく微笑んだ。
「君も同じ気持ちじゃないの?」
「ここは私の場所よ。私がいつ来ようと私の勝手よ。私は貴方にここから出ていって欲しいの」
「僕はずっとここにいたい。君と一緒に」
「冗談じゃないわ!」
私は叫んだ。
「貴方なんか顔も見たくない。昨日は昨日よ!」
「アヤナ」
健児は表情を曇らせ、私の手をつかもうとした。
「やめてよ!」
私は健児の手を思いきり叩いた。大きな音がした。
「……昨日は『構わない』で、今日は『やめて』か……順序が逆だね」
健児は手を摩りながら呟いた。
「君は本当に変わってる」
……自分でもそう思う。
健児は草の上に寝転ぶと、ポケットからタバコの箱を取り出した。
「座りなよ。別に僕だって君の体が目当てで来たわけじゃない。……多分ね」
健児は昨日と同じように唇でタバコを抜き取った。
私も座った。
ただ、彼からどれくらい距離を取ればいいのかわからなかった。
「昨日は嬉しかった」
一つ大きく煙を吐き出して、健児は呟いた。
「何が?」
「君が僕を受け入れてくれたことがさ」
「受け入れたわけじゃないわ」
「そう? ……それでも僕は嬉しかった。嬉しくって涙が出そうになった。それくらい嬉しかったんだ」
「貴方……泣いてたわよ?」
「……本当?」
それは困った、といった顔で彼は少し考え込んだ。
「昨日……どうして『ありがとう』って言ったの?」
私は昨日からずっと疑問に思っていたことを訊ねてみた。
「キスできたから? 女の子とキスしたことがそんなに嬉しかったの?」
健児は流石にこの質問には驚いたようだったが、しばらく黙った後に呟いた。
「それはまた直接的な質問だね」
「私は貴方を観察しているの」
「そうだったね」
健児は再び口を閉ざした。風のない茂みの中がタバコの匂いで満たされていく。
「時々、自分が駄目な人間だと思うことがある」
不意に、健児が口を開いた。
「自分が酷く薄っぺらくなった気分だ。自分のやっていることが全く意味のないことに思えてきて……何をやっても無駄なように思えてくるんだ。もっとも、最初からたいしたことをしているわけじゃないんだけどね……そしてすべてにやる気がなくなってくる。ほんの些細なことでもやり始めるのが面倒になる。それでただボンヤリと生きる。何もしない……でも酷く疲れる。本当に疲れる。多分、何もしないって事に疲れてるんだね」
健児は自嘲気味に笑った。
「疲れて、また何もできなくなる……悪循環だ」
私は何も言わなかった。
「何かに自分が追い詰められてる気がする。でも、それが何なのかわからない。ただ、追い詰められてる気がする。逃げ場もない。何処に逃げ出せばいいのかわからない」
「それって貴方のお父さんの問題が原因?」
「何だ、気づいてたのか……確かに、僕の家はやばいことになっている。詳しくは言わないけどね。でも、これはそれ以前からの問題なんだ。親父のことは怨んでない。自分の問題なんだ」
「その感情はうまく理解できないわ。理論的じゃない」
「そうかもしれない」
健児は酷く虚ろな口調で続けた。
「時々、自分の中に大きな穴が開いているような気がするんだ。自分には何かが足りない気がするんだ。そしてその穴は酷く寒い。こんな夏の日でもね」
健児は体を丸めた。
……まるで本当に凍えているかのように。
「こんな気分がずっと続いてた。自分に足りないものをずっと探してた……そして君に出会ったんだよ、アヤナ」
「私達はこれ以上関係を続けるべきじゃないわ」
私は反射的に自分の心に防壁を巡らした。
これは私の本意じゃない。私は健児に会いたかったはずなのに。
「君に会った時、凄くドキドキした。君こそ僕が探していた人だと思ったんだ。そして君が僕を受け入れてくれて本当に嬉しかった。……本当に嬉しかったんだよ」
静かな目で健児は言った。
「僕には君が必要なんだ。君とは昨日会ったばかりだ、でも僕は……」
「……やめて!」
次の瞬間、私は立ち上がり茂みの外へと駆け出していた。
何かはわからない。でも、何かが変わってしまう。
私は家に向かって坂道を駆け下りていた。後ろからは健児が追いかけてくる。
靴が乾いた小石を蹴り飛ばし、巻き上がった砂煙が喉をひりつかせる。
私は走っている。
……でも、どうして?
「待ってくれ、アヤナ!」
家に続く階段を駆け上がろうとした途端、追いついてきた健児が私の腕をつかんだ。二人の靴が勢いよく白い砂煙を巻き上げる。
「離して! 離してよ!」
「アヤナ!」
健児が叫んだ。その声は腕に食い込んだ指のように私の心に食らいついた。
「……どうしてだよ」
呟き、健児は私の身体を抱き寄せた。昨日と同じ汗の匂い。何故か酷く懐かしい気がする。こんなに細いのに、何処までも力強い彼の腕が私を包み込む。
一瞬、自分の身体が壊れそうな気がした。
そして、そうなってしまえばいいのにと思った。
……しかし、次の瞬間、私は力の限り健児を拒絶していた。
「離して!」
私は健児の腕を振り解くと、一気に玄関に駆け込んだ。
「……どうしてだよ」
健児は大きく息をつきながら私を睨んでいた。
「どうしてだよ!」
「……わからない」
呟き、私は玄関の戸を閉じた。
今でも、どうして健児を拒絶したのかわからない。私は彼に抱かれるべきだったと思う。後に彼の身に降りかかることになる不幸を考えれば。
彼は私を求めていたし、私も彼を求めていた。しかし私は恐かった。彼と結ばれるのが恐かった。そして私は逃げた。私はどうして逃げた? 幸せになれるはずの道から。何故逃げた? 目の前に開かれた可能性から。
健児はそれから二週間、姿を見せなかった。