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私の視線には人間を不快にさせるものがあるらしい。私はただ眺めているだけなのに、大抵の相手は嫌な顔をして「何を見つめているのか」と訊ねてきたものだった。
一度こんなことがあった。
中学生の頃のことだ。私と数人のクラスメイトが、教師から用事を頼まれた。それは次の授業で配るプリントの整理で、作業自体は簡単だったが時間はかかった。すっかり夕方になってしまい、最後に私と二人の女子だけが教室に残った。
その中の一人は志野さんという明るいクラスの人気者だった。背はかなり低く、癖のある髪を短く切り、従姉妹のエリカと同様に話すときに語尾を伸ばす癖があった。もう一人の女子がトイレに行き、教室内に私達二人だけになったときのこと。
「そんなに人のこと見るのが楽しい?」
不意に志野さんが訊ねた。
「……何?」
「人のことをジロジロ見て楽しいかって聞いてるのよ」
彼女は黙々と作業を続け、顔をこちらに向けようとはしなかった。短く丸い指がせわしなくプリントをめくり続けている。
「私、知ってるのよ? 貴女がいつも本を読むふりをしながら皆を見てること」
「深い意味はないわ」
以前はどう説明していいのかわからず「別に……」と言葉を濁していた私だが、この頃になると本当のことを説明する必要もないと考え、こう答えることにしていた。
「ただの癖なの」
「あの目はそんなものじゃない。私達を見下してる目よ」
志野さんはチラリと私を上目使いで見た。
「あの目で見られるとゾッとするわ。私が気づいてないとでも思ったの?」
「貴女が神経質な人間だってことは知ってるわ」
志野さんが一瞬硬直し、放たれる敵意がにわかに濃くなる。
「……へえ、貴女って超能力者?」
「私は見つめているだけよ」
「それがムカツクのよ。貴女私のことを馬鹿にしてるんでしょ?」
「馬鹿になんかしてない。見てるだけ」
口調こそ落ち着いていたが、私は内心酷く動揺していた。どうすれば納得してくれるか、これ以上の干渉を避けられるかと考え、やがて私の観察をありのまま話せば良いかもしれないという結論に行き着いた。
「例えば、貴女は今日の昼休みに机の上に乗って踊ってた」
「貴女はそれをずっと見てた」
「貴女は周りの人に囃し立てられててサルみたいな恰好で踊った」
「……そうよ」
「それから机の上で脚を広げて寝そべって……」
「みんながやれって言ったのよ」
志野さんの、皆から「愛敬がある」と言われている目が私を鋭く睨みつける。
「そして貴女は先生が来たので机から降りて座った」
「……そうね」
「椅子に座ってから貴女は下唇を噛んだ」
「…………」
「貴女は悔しい時に下唇を噛む癖が」
「あんたに何がわかるって言うのよ!」
志野さんはプリントの束を机に叩きつけた。
「あんたに私の気持ちがわかってたまるものか! ちょっと美人だからっていい気になりやがって!」
机を蹴り倒し、凄まじい形相で私を睨みつける。そしてプリントを床にぶちまけると、壊れそうな勢いで扉を閉めて教室の外に出て行った。
「……何? どうしたの?」
丁度トイレから帰ってきたもう一人が、もう片方の扉から恐る恐る顔を出す。
「さあ……」
私は適当に答え、散らばったプリントを拾い始めた。
その後、志野さんは学校を休みがちになった。
私はきっと、彼女の触れられたくないところに触れてしまったのだろう。
そしてそれは私の視線が原因で起きた。
だから私は、以後人間を観察する時は細心の注意を払うようにしてきた。
しかし、再び私の視線に気づくものが現れた。しかも私の内側を見ただけではなく、侵入してきた。これは生涯始まって以来の危機だと私は考えた。
だが何よりも不可解で深刻な点は、私自身が自分の防壁の崩壊をボンヤリと眺めていること……侵入を許してしまったことをあまり深刻に受け止めていないことだ。
これは本当に深刻な事態かもしれない。
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「どうかしたの? 体の具合が悪い?」
健児が訊ねた。
「……何でもない」
私は言葉を濁してうつむいた。
「赤くなってる」
「嘘?」
「……嘘だよ」
健児は笑って答えると私の手をつかんだ。
「ねえ、アヤナ。僕達は坂の頂上を目指して共に上り、そして今再び下っているわけだ」
「真実なんてなかったわ」
「……それは悲しいな」
「事実よ」
私は健児がつかんだ自分の手を眺めた。何故か振り払う気にならない。
「でも、僕は得るものがあったよ。できれば君にとってもそうだといい」
午後の陽射しが照りつける中、私達は共に砂利道を歩いていった。