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レポート  作者: 篠森京夜
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 目を開くと薄汚れた天井が見えた。

 黒ずんだ天井の木目は水墨画に描かれた川のように渦巻いている。

 木目の流れを目で追いながら、私は昔、天井の木目の節が何かの眼球に見えたことを思い出した。

 身体がだるい。寝返りを打つと、シーツが直接素肌に擦れた。昨夜は何も身に纏わずに眠ってしまったらしい。

 窓を覆う緑色のカーテンの隙間から、外の光が射し込んでいる。光は揺れるカーテンの端を濃緑から淡緑へと彩り、白いシーツの上に波模様を描いている。飛行機のエンジン音が遥か彼方から響き、窓の外には蝉の声。その規則正しい音に耳を傾けていると、再び睡魔が潮の満ちるように私の周りに溢れてきた。


 どのくらいの時をこうしているのだろう。

 わずかだが蝉の声と陽射しが強くなったような気がする。部屋の中はまだ涼しいが、夏の陽射しとアスファルトの放射熱で暖められた外の空気は、カーテンを揺らして中の空気と入れ替わり始めている。

 起き上がらないと。

 私は額を床に押し当てた。シーツ越しに畳の冷たさが伝わってくる。

 起き上がらないと。

 ……起き上がらないと。

 身体が汗ばみ始めている。しかし、私は冷たい床に額を押し当てたままだ。まるで頭の中に水銀でも入っているような気分だ……有害な重金属である水銀は脳内で中毒を引き起こす。

 ……そうか、中毒か。


 起き上がらないと。

 起き上がらないと……。


 肘をついて身を起こす。

 流れる水のように髪が肌を滑り落ちる。

 頭の中の水銀が逆流する。

 私は体を強張らせ、床に爪を立てた。


   /


 私の下着は部屋の隅に脱ぎ捨てられていた。シーツを身体に巻きつけ、網戸を開けてベランダに降り、たまった洗濯物と一緒に洗濯機に放り込む。ベランダからはアパートの前を横切る未舗装の道と、太陽を浮かべる青空が見えた。夏の陽射しから逃れ、早々に部屋へと戻る。

 洗濯が終わるまでの間、私は机に向かうことにした。

 この部屋にある物は少ない。蛍光灯やカレンダー、壁の金具にかけられたハンガーなどを除けば、壊れたラジオと小さな箪笥、そして二つの机。一つは私と彼が食事の際に用いる、いわゆるちゃぶ台型のもの。もう一つは私専用の小型の机だ。畳半分くらいの大きさで、脚は椅子の必要ない高さに切り揃えてある。

 私は机の前に腰を下ろすと、引き出しからノートと筆記用具を取り出した。適当に開いたページは小さな文字でびっしりと埋め尽くされている。私は新しいページをめくり、今日の日付を書き込んだ。

 このノートにタイトルはついていない。ただ表紙の書き込みだけが、このノートの目的とナンバーを示している。

『観察日記 No.13』

 観察対象は私と彼……そして二人の関係だ。


 私の名前は花村綾菜。

 二十五才の女性で、職業は大学院生。専門は人工生命の進化様式の分析……詳しくは後に述べることになるだろうが、生物の進化を数値的にシミュレーションし、調べることだと思ってくれればいい。今は大学を離れ、とある実験を行っている。

 この部屋は実験用のフラスコだ。私はこのフラスコの中に身を横たえ、私の身にどのような変化が起こるのか、自分自身で観察している。そう言えばこの二週間、一度も部屋の外に出ていない。

 当実験の命題は、要約すると『生きるとは何か?』だ。

 ……あまりに抽象的で二流の文学作品のような印象を受けるので訂正する。

『人間は何の為に生き、何を求めるのか?』

 これも違うような気がする。

 正直なところ、自分でもこの実験にどのような結果を求めているのか、完全に理解しているわけではない。実験の過程がその目的と方向性を定めてゆく……これに期待するしかないだろう。後の人間社会を大きく発展させるきっかけとなった、偉大な発見をもたらした実験の多くがそうであったように。

 もっとも、私の実験が後の世に伝えられるほどのものとなるかどうかはわからないが。


 突然だが、今、当実験の命題の良い要約例を思いついた。

 前述の二つよりは核心に近い気がするので、ここに記しておく。


『どうして、私は他の人間と関係しなければならないのだろう?』

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