第4話「スローライフ」
山の朝は早い。
草太は外に出ると、すがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「あれから、もう1週間か……」
今はミケケの元を離れて、山奥の一軒家で農業の真似事をしている。
本格的にやってみたいとは思うのだが、この世界には元の世界で食べていた野菜がないので、なんとなくで知っていた知識がまるで通用しない。今はまだ農業の基礎をゼロから学んでいるところだ。
でも、難しいなりにやりがいはある。昨日は畑の上にかわいい芽が出ていた。種を分けてもらった農家の人に報告しに行くと、自分のことのように喜んでくれた。
そうさ。異世界に来たからって、世界の命運を賭けた戦いをしたり、無理をして青汁のCMを撮る必要なんかないんだ。自然の営みの中で、人は自由に生きていけばいい。
草太は小屋に戻って朝食のスープを食べると、さっそく農具の手入れを始めた。
コンコン……
扉をノックする音が聞こえたので、草太は顔を上げた。
「おじさん、もう約束の時間だっけ? ゴメンゴメン、ついつい手入れに熱中しちゃったよ」
草太が苦笑しながら扉を開けると、そこにはセーラー服を着た見知らぬ少女が立っていた。
「……え~と、どなたですか?」
「私の名前は横沢冬美。あなたの代わりに、ミケケ様に連れてこられた転移者です」
二人はテーブルをはさんでハーブティーを飲んでいた。
「この小屋の裏手に群生してるのを見つけたんだ。何杯でもおかわりしていいからね」
「それはうれしいですけど、あいにく今日はお茶を飲みに来たわけじゃありません」
「……だよね」
「単刀直入に聞きます。どうしてミケケ様のもとを去ったんですか?」
草太はテーブルの上にカップを置くと、椅子の背もたれに深く体をあずけた。
「お互い顔を見るとなんとなく気まずくなっちゃってね。それで俺が撮影に行かなくなったんだ」
「パンティをずらす放送の後ですよね。モーティエルさんからその時のことは聞きました……それで、気まずくなったくらいで、ミケケ様との約束を放り出したんですか?」
「女の子の涙を見て罪悪感を覚えない男は、この世にはいないだろ。本人の了解があったとはいえ、あんなことやらせちゃいけなかったんだ。俺がもっと強く止めるべきだった……それなのにようやく10億もの売上を出せたことで、俺は舞い上がってしまってたんだ」
「……あなたはモーティエルさんの撮影の指示に従っただけでしょう」
「どんな理由があったにせよ、あの人のパンティに手をかけたのは俺なんだ。責任を負うべきなのは俺だ」
「……そうですね。そんな責任感の強い草太さんなら、撮影がどうなってるか知りたいんじゃないですか? 今から私が教えてあげます」
冬美はテーブルの上で手を組んだ。
「今の勝負の途中経過は70億対20億。ミケケ様の対戦相手は信者の財力が尽きたらしく、売上は停滞しています。一方、ミケケ様もあの放送で最終的に15億を稼いだものの、次の決め手となるものが出せずにいました」
「へぇ……あの放送で15億いったんだ。中途半端な所で終わったから返金されるものと思ってたけど」
「モーティエルさんが言ってました。『恥じらいのないモロ』より『恥じらいのあるチラリズム』だと。あの内容は結果的に視聴者の心を掴むことに成功したんですよ。じゃあ、その路線を続けよう、でもミケケ様はもうあんな目に遭うのは嫌だ。なら、どうなると思います?」
「もしかして、キミがこの世界に呼ばれた理由って……」
「そう。私がミケケ様の代わりに番組で辱めを受けることになったんです。私も甦らせてもらったお礼として、ある程度のことは受け入れる覚悟でした。でも、鈍化していく売上に業を煮やしたミケケ様は、更に過激な内容を私に強いようとしたんです」
草太には言葉もなかった。
「そんなことになってたんだ……元はと言えば、俺の逃亡が原因でもある。俺にできることなら手助けしたいとは思うけど……」
「じゃあ、私をここに住まわせて下さい」
「は? いやいやいや……若い男と女が一つ屋根の下って、どう考えてもまずいでしょ」
「あなたと同じように、私もミケケ様の元から逃げてきたんです。もうあそこには戻れません」
「こんな文明と切り離されたような生活、大変だって」
「ずっと新体操部で鍛えてましたから、体力には自信があります。インターハイには行けなくなっちゃいましたけどね……」
「横沢さん……」
「冬美でいいです。冬美って呼んでください」
「じゃあ、冬美ちゃんで」
「これからよろしくお願いします、草太さん」
俺たちは日本からの転移者同士、すぐに意気投合した。
一度打ち解けてしまえば、冬美ちゃんは冬どころか、春のように暖かく明るい性格の持ち主だった。
育てた作物が病気で全滅したり、野獣に畑を荒らされた時でも、彼女がいれば落ち込むことはなかった。ジョークのセンスはなかったけど、俺を励まそうとしてくれたことが何よりも嬉しかった。
毎日彼女の笑顔を見ているうちに、いつしか俺は自分が自由に生きることより、彼女のために生きたいと思うようになっていた。
そのことを思い切って伝えたら、彼女は満面の笑みで俺を受け入れてくれた。
その日の晩、俺たちは共に生きている無上の喜びを分かち合うことができた。
お互いを呼び捨てで呼び合うようになった後は、すべてがうまく行った。
野菜の収穫も軌道に乗り、市場に出荷してまとまった現金収入も得ることができるようになった。そのお金で冬美の喜ぶものをお土産に買って帰ったり、将来の設計のために貯蓄することが楽しかった。
だが、そんなバラ色の生活は長くは続かなかった……冬美が原因不明の病に倒れたのだ。
俺はあらゆる方面に手を尽くして最高の癒し手を探した。この世界には医療技術の進んだ医者はいないが、どんな病気でも治すことができる奇跡の魔法を使える人たちがいた。
しかし、そんな凄腕の癒し手たちでも、冬美の病を治すことはできなかった。
「草太……元気出して」
真っ暗な部屋の中、ベッドに横たわる冬美の手を握って草太は泣いていた。
「俺には無理だ。冬美がこんなことになってるのに、とても元気なんか出ないよ」
「それでも出さなきゃ……私が死んだ後も、草太の人生は続くんだから」
「死ぬなんて言わないでくれ。弱気になっちゃダメだ」
彼女は草太の励ましを聞きながら、力なく暗い天井を見つめていた。
「私わかるの……だから、今のうちにちゃんと言っておこうって思って」
「……何を?」
「ありがとう。草太に会えて、私とても幸せだった」
草太は冬美の手を強く握りしめた。
「頼むよ……良くなってくれよ。俺には冬美さえいてくれればいいんだ。癒し手がダメなら祈祷師に頼もう。どんな高価な薬だって買ってやるし、冬美を救うためならどんな悪魔と契約したっていい……だから……だから」
後半は嗚咽で声にならなかった。
「何で……何でだよ……今まで二人で一緒に頑張ってきて、やっと何もかもがうまくいくようになったら冬美が倒れて……こんなの……こんなのCMだったら、青汁飲んで健康を取り戻すのがお決まりのパターンなんじゃないのかよ……ん? んんんんん??」
草太はよろよろと尻もちをついた。
「ま……まさか……これも青汁を売るための壮大な前フリ……CMなのか……?」
勢いよく後ろを振り返ると、そこにはいつのまにかカメラマンを従えた髭面の男がいた。
「モーティエルさん……」
「久しぶりだね、草太くん。今からキミに全てを話そう」
「ここは私が撮影のために作った別の時間軸だ。キミが途中で作り物の世界だと気づいてしまったので、もうすぐこの世界は崩壊し、キミはミケケのパンティを脱がそうとした直後の時間軸に戻る。つまりキミは肉体的には歳を取らずに、この世界で生きた記憶だけを得ることになる」
「俺のことはいいんです。冬美は……冬美はどうなるんですか?」
「冬美なんていう子は本当はいないんだよ。彼女も含めて、ここは全てCMのために用意された世界なんだ」
「そんな……そんなのって……」
「エロスに肩を並べるキラーコンテンツは何だと思う。愛だよ。キミが見せてくれたような本物の愛こそが視聴者の心を打つんだ。僕たちがキミにしたことは酷いことで、それには弁解の余地はない。全ての責任は僕にある。でも、体を張ったミケケは許してやってほしい」
「え……ミケケ様がいたんですか?」
「キミの後ろにいるじゃないか」
草太の目の前で、ベッドに横たわる冬美の顔がミケケの顔に変わっていく。
「横沢冬美はリアリティを与えるためにミケケを依り代にしたんだ。転移前の記憶は私が監修したものをインプットしておいたけど、キミと長い時間を過ごし共に愛し合った女性は、ミケケ本人でもあるんだ」
草太には彼の言葉が信じられなかった。
「……で、でも全然性格違うじゃないですか。ミケケ様ってもっと自分勝手というか生意気っていうか……」
「僕も含めて、神はみんな自分勝手さ。それに、僕は幼い頃からミケケをよく知ってるから分かる。最初は生意気かもしれないけど、一度打ち解けた相手には春のような笑顔を見せてくれるんだよ……冬美のようにね」
草太の脳裏に冬美の笑顔が次々と浮かんでいく。そして最後に、告白を受け入れてくれた時の満面の笑みが映った。
「依り代になった彼女の記憶は、元の世界には引き継がれない。これはキミを主人公として作られた世界だからね。パンティを脱がそうとしたことしか気まずく思う必要はないから、安心したまえ」
不意に周りの景色の色がくすみ、灰のように剥がれ落ちていく。
「もうそろそろタイムリミットだ。僕はもう二度とキミの前に姿を見せないと約束するよ。キミにしたことを思えば全然足りないけど、どうか許してほしい……それとミケケのこと頼んだよ」
モーティエルが両手をポンと叩くと、草太はもうもうと煙の立ち込める前回の収録直後の世界に戻った。
「草太、叔父様どこに行ったか知らない? まさかあの爆発で怒って帰っちゃったのかな……」
懐かしいミケケ様の声が聞こえる。
声のした方に振り向くと、薄煙越しに彼女の顔が見えた。
……やばい、今、顔を合わせたら泣いてしまいそうだ。
草太は彼女に背を向けようとした。しかし、ミケケは素早く彼の前まで駆け寄ると、少し照れながら言った。
「あ……あのね。一度しか言わないけど、さっきは止めようとしてくれて……ありがとう。勝負に勝つためとはいえ、あたしどうかしてたみたい」
「……いえ。冬美……いや、ミケケ様が死ななくて本当に良かったです」
「はぁ? あたしがあんな自分で起こした爆発で死ぬわけないでしょ。変なの」
女神ミケケはそう言って笑った。
顔は違うけど、確かに面影がある……草太は思わずミケケの胸に飛び込んでしまっていた。
「え!? ちょ、ちょっと、どさくさに紛れて何してるのよ!!」
ミケケは魔法の力で草太を吹き飛ばした。
「少し甘い顔をしたぐらいで調子にのるんじゃないわよ。いい? 脱ぐことはやめたけど、勝負まで捨てたわけじゃないんだからね。明日までに代替案100個考えておきなさいよ!」
彼女はそう言い放つと、天界に戻っていってしまった。
「……やれやれ、あれで本当に良かったのかい?」
「ええ、私まであの時間軸の記憶があることを知ったら、この後やりにくくて仕方ないでしょ。少なくとも勝負に勝つまでは、私の心の中だけに留めておく方がいいわ」
「まさしく、神のみぞ知るというやつだね。僕たちらしくて好きだよ、そういうの」
「叔父様ったら、茶化さないで」
「はいはい、それじゃ僕は草太くんとの約束通り、遠くで見守ることにするよ。キミたちの勝負がどうなるのか、がぜん興味が湧いてきたからね。頑張ってね、応援してるよ」
モーティエルの気配は消え、ミケケは一人天界の寝室に戻った。
「草太……」
彼女は胸に残った温もりを確かめるように、両手を強く胸に押しつけた。
ミケケの顔のアップと画面右下の『つづく』という文字で深夜番組は終わり、その後には『試験電波発射中』の文字とカラーバーの画面が映し出された。
―――
草太の幼馴染の白部奈央子は、TVの前で寝息を立てていた。
彼女は連日の夜更かしと青汁の販促活動に疲れ切ってしまっていた。
青汁が売れても、草太が元の世界に戻ってくるかどうかは分からない。いや、自由の身になるとは言ってたけど、多分元の世界までは戻ってこれないだろう。
でも、暴走車から自分をかばって死んでしまった草太が別の世界で苦しんでいるなら、何とかその手助けがしたかった。
「草太……」
奈央子が寝言で草太の名前を呼ぶと、その頬に涙がつうっと流れ落ちた。