7 ロゼルの反撃(後)
室内に、何とも言えない静寂が横たわる。
ロゼルは右隣を覗き込んだ姿勢のまま、にっこりと会心の笑みを浮かべてみた。
今日も男装だけど、この先生には女児に見えているらしいからまぁいいかと、殊更愛らしく映るよう、にこにこと―――青年の手を両手で掴み、目線の高さに持ち上げた。
「え、あの?」
「先生はご存じないかも知れないが、キーラ家の家訓は『やるなら、徹底的に』なんだ。はい、ちょっとその眼鏡取って。邪魔」
「ええぇっ?! ちょ、待ってくださいロゼル様?? 何を?」
「うるさいなぁ……触れなきゃわからないんだろ? はい、失礼」
体重を全く感じさせない動作で機敏に立ち上がったロゼルは、素早く青年の眼鏡を外すとカチャ、と後ろ手に卓上に置いた。座った青年の膝の間にお邪魔する。
なお、その密着ぶりに少女は一切頓着していない。(膝とか腿とか服越しに触れてるけど当面の目的は顔だしな)と、適当に流しておく。
ロゼルは、狼狽を通り越してちょっとしたパニックに陥っているらしいイデアの顔をちいさな両手で挟み、そのまま容赦なく撫でまくった。言うまでもなく真剣である。
「!」
「ふぅん……なるほど、自分の顔しか触れる機会はないから新鮮だね。男の人って、確かに何でもかんでも大きい。私は子どもで先生が大人だって違いはあるにしても、母上とは別物ってことくらいはわかるよ……なるほど“骨格”ね。ヒゲは剃ってるの?ないね、全然。スルスルしてる。唇とか、父上より薄いし」
「……一応、身嗜みとして。元々そんなに濃くありませんし」
「あ、そう。何で目、閉じてるの? 目の色、見せてよ」
衝撃の波は遥か遠くに去ってしまったのか、青年はひどく従順だった。されるがままと言っていい。小さな手がそっと瞼に触れたので、ぴくりと反応してから―――ようやく、ひらいた。
「へぇ……」と、ロゼルはまじまじと至近距離から水色の瞳を眺める。
意外に一本一本の睫毛が長い。艶のある茶色で、直線的。母上のように上に向けて曲線を描いたりはしていない。すっきりとした目許で、黙っていればこの上なく優しそうに見える。
瞳孔の黒っぽい焦げ茶色。視界を映す光の陰影に自分の輪郭が重なっている。ロゼルは鏡みたいだな、と感じた。
水色はどこか体温を感じさせない色合いで―――けれど、氷の青ということはない。早春の、薄く曇った空の色に近い。
「……きれいだね、先生の目」
「……それは、どうも」
「ありがとう。満足した」
頬に触れたまま、ふ、と唇の端を上げたロゼルは、それきりぱっと手を放し、左隣の席へと戻った。
うん。なかなか良いものを見た―――と、平然と茶器を持ち上げ、冷めてしまった紅茶を含む。
ひとしきり飲んでカチャ、とテーブルに置くと、まだ隣にいたらしい青年からの視線をひしひしと感じた。
「どうした? リース先生……あ、すまない。眼鏡か、はいどうぞ」
これも、手に取ると大きな造りだと感じる。レンズの上部のみに銀の縁取がなされた眼鏡を卓上から取ると、そっと手渡した。
すかさず装着される。
その、しっくり来る感じに思わず(この人は、やはりこの顔だな)と、少女は一人納得する。裸眼でまじまじと眺めた素の顔も、悪くはなかったが。
「……? すまない。紅茶、冷めてしまったね。侍女を呼んで、淹れ直させようか」
まだ動かない教師に、遠回しに向かい側へと着席を促すと、口許を片手で覆ったイデアから「信じられない……」と、半ば呆然の体で呟かれた声を耳が拾った。さらに重ねられる。
「いったい……何なんですか、貴女は?! 本当に八歳か!」
「何、と問われても困るんだが……」と、ロゼルは肩をすくめた。本当に他意がない。
「どうやら、これが“私”らしいとしか言えないな。間違いなく八歳だよ。
――さ、先生。席に戻って。今日はこれから、何を教えてくださるんです? その全てを糧にする気合いなら、昨日一日で随分といただきましたからね」
にこっと笑んだ口許。どこか挑戦的で、理知的な光を置いたままの深緑の瞳。
いつも通りだが、―――昨日までとは少し違う。
最高の栄養を見つけた、と言わんばかりの勢いを感じさせる伸びやかな若木のように。
瑞々しくもどこか危ういうつくしさが、少年姿の少女からは溢れんばかりに滲んでいた。