5 描く手、観る目、察する心
控えていた侍女からは「紅茶でもお持ちしましょうか?」と訊かれたが、ロゼルは断った。どうせ、もうすぐ昼だし。何より、新しい教師となったかれの腕前を知りたい。
なので―――一緒に絵を描く運びとなった。
対象は互いの顔。大体の実力やくせ、作風を知りたいだけなのでとりあえずはスケッチだけ。
「では、失礼して……」
と、おもむろにイデアは寝台に背を預けるように、絨毯を敷いてある床に座った。
「? リース先生。椅子にはお掛けにならないんですか?」
さすがにロゼルもソファーから腰を浮かせる。立ち上がろうとして――「いや、いいよ。そのままで」と、言われた。
とても自然に、敬語を外された。しかも―――
(凄い。空気が変わった)
ぴん、と張りつめた緊張感の出所は目の前の青年だ。おそろしいほどの集中力で少年姿のロゼルと手元のスケッチブックとを行き来している。真摯な、水色のまなざしで。
ロゼルはすとん、と指示通りに座り直した。
窓辺を背に、光源を後ろから浴びるロゼル。部屋の中央近く、窓から離れてはいるが全体的に均一な光の当たり方のイデア。
なるほど、描かれ方はぜんぜん違う。……と、いうよりも。
(さっきまでと、目付きも口調も別人なんだが……何だこれ。どっちが“素”なんだ?)
他人に、内心であれ揺るがされる。謎を突きつけられるのは。
おそらくロゼルにとって初めてのことだった。
* * *
少し、時間が経った。
ロゼルはいつも通り見たままを描く。
何も考えず、ただ写し取ることのみ。“無”に近い集中。
そこへ、声を掛けられた。
声だけは柔らかく、しかし自己紹介のときのような安穏とした響きはない。どちらかと言えば淡々としている。
「きみは」
「……はい?」
「描きたいものはある?」
とても、直接的な質問だった。
すぐに脳裡に浮かんだのは、いとしい隣家の少女。言いようもなく大切で、大好きな彼女のうつくしさを、余さず描きたい。―――渇望と言ってもいいほどに。
ふぅ……と、詰めていた息をちいさく逃がし、ロゼルは答えた。
「ありますよ」
ふうん、と青年はそれを軽く流す。
少年の装いをまとう少女は、かちん、と来た。(ひとの大事なものを聞いといて、それなの?)と、冷たく言い放つのを、寸でのところで思いとどまる。
言い返せずに黙っていると、言葉を重ねられた。
「じゃあ、一枚一枚を無駄にせず描くことだね」
「え?」
「『描きたいものに届かない』って顔してる。……でもね、そんなのは甘えだ。八歳? 年齢って便利だね。僕は“描くこと”にはそんなものは関係ないと思ってる。きみは、自分から遠回りしてるだけだ―――時間はまだある、無意識にそう感じてるから」
「!!」
そこで一度、ちらっと窓辺に視線を寄越すと、さらに追撃を言い放つ。
「それ、なんの根拠もない思い込みだからね……っと。はい、できた。きみは?」
「……出来てます。知ってたんじゃないですか? 私が、とっくに終わってたのは」
よいしょ、と腰をあげて窓辺のロゼルの側へと歩み寄る―――一見温厚そうで、その実辛辣な教師は、それまでの厳しさが嘘のように、ふっと目許を和らげた。
「うん、知ってた。はい、そっちのテーブルに並べて置こうか」
「……」
イデアもロゼルも、ぽん、とスケッチブックを卓上に置く。
すかさず「――……っ!」と、息を呑んだのはロゼル。イデアは相変わらず、読めない表情で笑んでいる。
「じゃ、今日の講義はこの辺にしておこうか。きみの先生を住み込みでするなら、一度家には顔を出しておきたいし。明日の午後かな、また来るよ。
あ。忙しくなりそうだから、お昼は辞退するね」
「――先生」
今まさに退出しようと背を向けたイデアを、ロゼルは、声をその場で絞り出すように溢して呼び止めた。
さすがの苛烈な教師も立ち止まる。
「……なに?」
「今日は、貴重なことを教えていただいて有難うございました。あと……覚えててください。時間があろうがなかろうが、私と先生の間には純然たる十年間の重みと隔たりがある。そのことを踏まえても」
す、と。扉へと向かう大きな背に、まっすぐ身体を向けた。
「私は、あなたを悠々と越えてみせる。“いつか”なんて言わない。到達できる最高速度で、だ……! ごきげんよう、リース先生。逃げないで明日、来なよね」
口許に浮かぶのはいつもの笑み。しかし瞳に浮かぶのは――今まで抱えたことのない熱。怒りにも似た羨望。
向けられた熱をはらり、と流すようにして、青年は退出のための礼をとった。
「えぇ。もちろんです、若君」
ぱたん、と扉が閉まる。
残されたスケッチブックは二冊。
一冊は、寝台に背を預けて絵を描くイデアがそのままに。
もう1冊には―――……
年ごろの乙女となったロゼルが、シンプルな白いドレスに花を飾り、あざやかな笑みを浮かべて佇んでいた。