4 銀縁眼鏡の青年※
先に妻から聞いておいて良かった。本当に、よかった――……予想以上の衝撃を受け流すため、イヴァン・キーラ画伯は噛みしめるように束の間、目を閉じた。
若干天を仰ぐ。
閉じた視界は真っ暗だったが、今日、強引に連れてきた客人の戸惑う気配が、それとなく左側から伝わった。
「あのう……キーラ卿? 大丈夫ですか。お加減でも……?」
気遣わしげな青年の声。もの柔らかな響きで落ち着いた中低音。アルムほどの艶はないが、人の良さそうな慕わしい雰囲気がある。
――うん。心配を掛けている場合じゃない。
イヴァンは即座に立ち直った。
「いや、すまないリース君。そのう……ちょっと、立ちくらみだ。大したことはない」
「そうですか? 本当に……あの、僕が言うことではないのですが。お掛けになられては?」
イヴァンは、ぱっと目を開けた。
さすがに心配を掛けすぎたかと深緑の目を細め、にこっと青年に微笑みかける。
「大丈夫、大丈夫。じゃあ、ささっと紹介するよ。――ロゼル?
こちらはイデア。イデア・リース君。今年の首席卒院生でね。たいそう素晴らしい作品だった。あとで話を聞くといいよ。
……で、リース君。こっちは私の末の子でね。名をロゼル。八歳だけど中身は……もう、色々凄いんだ。ロゼル、ご挨拶なさい」
「はい、父上」
それまで黙って、じいっ……と猫の子のように大きな瞳でまじまじと父と客人を見上げていたロゼルは、素直に応じると青年に向き直り、す、と紳士の礼をとった。――とても、自然でうつくしい所作で。
「初めましてリース殿。キーラ画伯イヴァンが第三子、ロゼルと申します。まだ若輩の身ですので、よろしければ後ほどお話を伺わせてください。レガティア芸術学院のことや、卒院制作のこと。とても興味があります」
幼いが凛とした声音と口調に、青年――イデアは銀縁の華奢な眼鏡の奥で、水色の瞳を凝らした。「なるほど」と、思わずの体で呟き、同じく紳士の礼を返す。
どこか應鷹で、のんびりとした所作だった。
さらり、と片側で結った真っ直ぐな灰茶色の髪が、こぼれて揺れる。
「こちらこそ、初めましてロゼル様。お父君よりご紹介に預かりましたイデア・リースと申します。平民ですので、敬称は取っていただけると有り難いです。
あとは……そうですね。どうぞ、何でもお訊きください。僕で宜しければ、あなたのご興味のあることは何でもお話しいたしますよ」
にこ、と笑んだ顔は綺麗だった。
そんなに美貌というわけではないが、整っている。父と違い繊細さすら感じる柔らかな容貌。しかし、ちゃんと十八歳の成人男性らしく高い上背と広い肩幅をそなえている。背は、父よりは頭一つ低い。
ロゼルは再度じぃっ……と、目の前の青年を見つめた。
イデアは若君の不躾なほどの視線にも動じず、少し首を傾げて微笑んでいる。見返す水色の視線は温かみがあって、且つやさしい。
(こいつ、絶対野良猫とかでも簡単になつかせるタイプだよな……)
黙ってやり取りを眺めていたキーラ家の当主は、にんまりと笑みを浮かべる。
そのままポンッ! と手を打った。たちまち二人分の視線が集める。
「よし決めた。――リース君。きみ、今日から住み込みでこの子の教師してやってよ。
ロゼル、かれは今日からきみの新しい先生。やってみたいこと、知りたいことは何でも訊くといい。……あ、前の、お手本通りの絵を褒めるしか能の無い爺さんは解任にしとくね。すまなかった、あんなに“権威”に弱い奴だと見抜けなかった担当の落ち度だよ。そっちもすげ替えとくから」
「え? あ、はい。ありがとうございます父上」
「あの……キーラ卿?」
そこで、右手を小さく挙手した青年が、いかにも恐る恐る――といった風情で口をひらいた。
「うん?」
「それは……僕の就職先がキーラ邸に決まった、という認識で間違いないんでしょうか」
イヴァンはきょとん、と深緑の目を丸くした。
「言ってなかったっけ」
「聞いておりませんが」
「そう。断る?」
「!! いいえ―――まさか! 光栄の極みです。願ったり叶ったりですよ! 特に、卒院したての若造にそんなにすぐパトロンが付くなんて滅多にありません。しばらくはあちこちの貴族家で営業活動かな、と腹を括ってましたので……
ありがとうございます、精一杯務めさせていただきます!」
そのまま、がっ!と両手でイヴァンの左手を掴んで頭をたれ、額に押し当ててしまった。実際のところ、なかなか物怖じしない情熱家らしい。
「あはははは、うんうん。まぁほら、頭上げてよリース君。引き受けてもらって私も嬉しい。むす……じゃない。うちの子、宜しくね」
「はい! お任せを!」
ばっ! と、勢いよく上げられた青年の表情は、目映いほど満面の笑顔だった。