37 求婚の舞台裏(後)
あのあと。
侍女達に短く切られた髪の名残を視界の端に映しつつ、イデアは再び夫人の元に呼び出された。
『元々ね。“当人同士が憎からず思い合うようなら”と。随分前から打診されていたのよ』
『はぁ』
切るきっかけが無かったから、なんとなく伸ばしていた髪は結構な長さだった。
おかげで頭は軽い。つくづく軽い。快適ですらあるが、話の流れには暗雲が垂れ込めているのをじわりと察し、イデアは内心呻いた。
(……これは、遠回しに諦めるよう諭されている……?)
いかに鈍くとも、こうまで刺さる言葉の棘に気づかぬほど強心臓ではない。
随分前、とは。
どれほど前だろうか――と、自然に問うまなざしとなる。
あと三十分もすれば名だたるご婦人がたが集うとあって、ミシェルの装いはうつくしい。
蜂蜜色の髪と瞳は白い肌に映えて、それを引き立てるようなダークグリーンのドレスは体の線に沿う形。多様なカッティングで反射率を引き上げた色硝子の粒が裾や袖にふんだんに用いられ、ところどころ扇子の装飾と同素材の白い羽で飾ってある。
単品で見ればシンプルなデザインだが、全体で捉えると本人の美質がこの上なく際立っている。冬のサロンの女主人にふさわしい出で立ちといえた。
ミシェルは手元の扇子をぱちん、と鳴らし、求婚の舞台裏について粛々と語る。
『ノエル殿下が、留学先の白夜国でどなたかを見初められたら、話は別だったのだけど。あの方もなかなか堅物よね。すぐに靡く花には見向きもなさらない』
『諜報を?』
『当たり前です』
イデアも近年、そういった活動には関わっている。画伯の助手という気楽な立場からか、滞在先の使用人などは総じて口が緩かった。主人の付き合いや好み。ちょっとした国政の愚痴まで。
“――あまり、相手に警戒心を抱かせないのって一種の才能だと思うんだよね。リース君?”
とは、ロゼルの父イヴァンの言葉。仕え始めた早い段階でそう評された。
キーラ家を筆頭に、各国に派遣される芸術家達はみな、多かれ少なかれ諜報活動を担う。
現地での権力の推移。現政権の弱み、拮抗勢力や反乱の芽。それをレガートに持ち帰り、時に他国の穏健派へと流す。情報はすなわち力だった。
ろくな軍事力を持たない小国の、数少ない生きる術であり手段。それを千年以上も続けてきた。
時には苦難の時代もあったそうだが――と、この二年で学んだことを振り返る。
しみじみとため息をついたイデアは、束の間茫洋としたまなざしを宙に漂わせる。
が、一度の瞬きを起点に切り替えた。きりりと表情を改める。
――――まだだ。
まだ、諦めるのは早い。
秘してもいい事情をわざわざ夫の片腕にばらすには、何か理由があるはずだった。
それを探るべく、あくまでもやんわりと切り出す。
『ノエル殿下は、他国の姫を娶るものだとばかり思っていましたが』
気配を違えたイデアに、ミシェルは、おや、と目をみはった。一呼吸置き、あえて鷹揚に頷く。
『普通ならね。でも釣り合う年頃の姫が、微妙にいらっしゃらないのよ。それならば、帝王学を教え直す必要のない、我が国の事情にも明るい、嫁いでも問題のない令嬢を、と』
『? お待ちください。ロゼル様は時期当主としてお育てしたのでは?』
『そこなのよ』
ふぅ、と口許に扇子をあてがい、ミシェルは遠い目になった。
“――本当はキーラの家名を継がせたい。数百年に一度の逸材なの。必ず世代を越えて愛される芸術家になれるはずなのに”
……と。
侍女に来客を告げられるまで、当主の奥方と住み込みの家庭教師は難しい顔のまま、話し合いを続けた。
つまり。
「皇室は私を皇太子妃にとお望みだが、母は……おそらく父も。どこかで私の腕を惜しんでくださってると。そういう認識でいい?」
「正しく、そういうことですね」
家庭教師の抱擁から抜け出でて、今はソファーに並んで座っている。
師弟は、ごくごく真面目な顔で弟子の結婚にまつわる進退について話し合った。




