36 求婚の舞台裏(前)
――徒歩で雪のなかを歩む少年。
もとい、ロゼルが邸に戻ると暖かな空気と、どことなく達成感を漂わせた侍女らに囲まれた。雪のついたコートをそのうちの一人に手渡し、怪訝そうに問う。
「? 何かあった? 皆、すごく嬉しそうだ」
「嬉しい……ことは、ございませんわ。奥様のご指示のおかげで、ほんの少し溜飲を下げられただけですの」
「へぇ」
母が関与するなら、これ以上立ち入るべきではない。経験上、ロゼルはすみやかに思考を切り替えた。
チャリ、と胸元の懐中時計を探り、確認する。午後五時すぎ。夕食にはまだ早い。
(なら、今日のエウルナリアでも描こうか――あの子を描きながらなら、“あのひと”とも普通に話せるかもしれない)
内心の動悸はとことん無視して、自然さを装い彼女らに視線を流した。
「先生はいる? 夕食まで部屋で絵を描くから、よかったら来てと伝えて」
「……畏まりました」
ぴく、と片眉を上げて返事をしたのは、ミシェルの腹心の侍女。
ははぁん、と勘が働いた。どうやら、よほど彼女らの神経を逆撫でることをしでかしたらしい。
ふ、と口の端を上げる。
「まぁ、そう怒らないでやって。何をやったか知らないけど。貴女がたの手にかかっては、先生もたじたじだったでしょう」
「えぇ。私どもの気は晴れましたわ。あとは、お嬢様のお好きなようになさってくださいませ」
「? わかった」
ぽんぽん、と膝下の雪の名残を払う。「お茶はいらない。お隣でたくさんいただいたから」と言い置き、やわらかな笑みを残してロゼルは階段に向かった。
* * *
……なるほど、溜飲。
「お戻りなさいませ、ロゼル様」の挨拶とともに入室した師を見て、ロゼルは目を瞬いた。
ない。
綺麗さっぱり、ない。
「ないね……」
「えぇ。なくなりました。一思いにどうぞ、と侍女頭の方にお願いしたら、こうなりまして」
「あのひと、苛烈だからね。私の乳母でもある。まぁ――おいでよ。そこ、冷えるでしょ」
「ありがとうございます」
なんとも情けない顔をした青年が、後ろ手に扉を閉める。ゆっくりと暖炉の前でイーゼルの画布と向かい合っていたロゼルの元へと歩んできた。
カタン。
パレットと筆を、座っていた椅子に置く。
立ち上がったロゼルは傍らの教師を仰ぎ見た。手を伸ばす。――とても、とても短くなった髪に。
さらりと指先を滑る前髪。長さを残してもらえたのはここだけだった。イデアは何となく嬉しそうな、くすぐったそうな顔で愛弟子を見つめている。
次いで、左耳の下。切りたての髪は毛先が綺麗。自分も今朝、切ったのでわかる。……物足りない。
「後ろ、触っていい?」
「どうぞ」
触れやすいように、との配慮か、イデアは前傾姿勢で目を閉じた。眼鏡の奥で灰茶色の睫毛がまっすぐ、床を向く。下ろされたそれと左頬にあかあかと暖炉の明かりを受け、時が止まったようだった。
そっ……と、うなじに触れる。
首もとを覆うセーターだから、素肌に掠ったわけじゃないのに、イデアはぴくりと反応した。無視する。
二、三度毛先を指で触り、ロゼルは身を離した。離したつもりだった。
「! ……先生? 何してるの」
「いえ、目の前に貴女がいるとどうしても」
「堪え性のない大人だね!?」
「はい。その通りです」
「~~ッ、居直ればいいってもんじゃない。だめだって! 離し」
「――――申し訳ありません、ロゼル様」
(?)
腕の力は弱まらない。みずからを抱きとめるイデアの手は楽に背を回り、腰と左肩に当てられている。右肩に温もりを感じた。深い謝意と悔恨に満ちた吐息と囁きは、肩から漏れた。
「せん、せ……」
「私は、貴女がどんな姿でも好きなので。今朝も、その……また一段と凛々しくなられたな、と。道を踏み外す者が大勢出るのではと危ぶみまして」
「こんな形で道を誤るのは、先生くらいだよ。しっかりしなよ……」
もぞ、と身じろぎするが抜け出せない。
仕方なく、困ったあげくイデアの背に両手を当てた。すると、余計に変な感じに抱きしめられてしまう。
(!)
いけない。
今度こそ、きちんと話したいと思ってたのに。
妙な、胸騒ぎに似た落ち着かなさを抱えかねて、ロゼルはかれの耳許で言葉にならない懇願をこぼした。
「だっ……! ちょ、やめ……、待って。頼むから」
――ひとの、話を聞け。
願いは通じたのか。一片なりとも理性は残ってくれていたのか。くるしげな表情で、イデアは事の顛末を。ロゼルがバード邸に出掛けていた間のことを話し始めた。
「……夫人にお願い申し上げる前に、想いが堰を切るのを止められなかったのは、僕の至らぬ点でした。いくら、焦っていたからと」
「何? 母になんと言われたの。わかるように教えなよ、先生」
教え子の。
想う相手の叱咤は効果絶大なようで、イデアは苦笑まじりに顔をあげた。
至近距離にもほどがあるイデアの水色の瞳を覗き込む。視線が絡む。
――――
続く、言葉に。
打ち明けられた求婚の舞台裏に、ロゼルは不覚にも息を飲んだ。




