33 語らい(前)
玄関でノッカーを打ち鳴らしたロゼルは、左手に伸びる長い通路を歩き、離れの棟まで案内された。
いわゆる本邸がバード楽士伯家の生活空間なら、離れは音楽空間だった。
防音壁が施された三階建てで、一階は小ホール会場やサロン。二階は各種楽器室。三階は図書室になっている。
なんでも天候を気にせずに通いたいからと、何代目かの当主が強引に二つの棟を繋げてしまったらしい。
やがて辿り着いたサロンでは、幼馴染みの少女がわくわくとロゼルを待ち受けていた。
* * *
しゅんしゅん、と湯の沸く音がする。
淹れられた紅茶の水色と香りを楽しんだあと、ゆっくりと一口含む。同時に左右に視線を滑らせた。
左の扉にはエウルナリアの従者レイン。
右の窓辺では、赤毛の少年が長椅子で半ば寝そべるように寛いでいる。
(そういえば、こいつらに挨拶がまだだったな)
唐突に思い出したロゼルは、ちょっとばかり投げやりに、まずは右側へ声をかけた。
「来てたの? グラン」
「来てたんだよ。ロゼル」
短い応酬。赤い髪。暗めの紺色の瞳。
きつめの容貌が整っている少年――グランは友人の一人。そしてエウルナリアの求婚者の一人でもある。
(……酷なことをするよな。アルムおじ様も)
頬杖をつき、遠慮なく見つめているとグランは居心地悪そうに身じろいだ。
背凭れのクッションをごそごそと胸の前で抱え直し、「何だよ」と睨んできたので微笑み返す。
「何でも……と、言いたいところだが。折角のエルゥとの逢瀬に残念だなと思って」
「はいはい。乙女の語らいに口出しなんかしねぇよ。邪魔はしない。どうぞ?」
「あぁもう、二人とも!」
ぺしぺし、と丸テーブルを叩いてエウルナリアが声をあげた。
「仲が良すぎるのも考えものよね? ロゼル。それより……髪、切っちゃったの? ずいぶん思いきったね。いつ?」
サロンのちいさな主は、こういうときの手腕に長ける。負うべき責任、握るべき主導権はきっちり押さえるしっかり者だ。
ロゼルは頬杖をついたまま、目線のみで彼女を流し見た。
「今朝、急に。でも、短いと短いなりに鬱陶しいよね。下を向いたら落ちて来るから特に邪魔。今度からはもう少し長さを残そうかな。似合わない?」
「……また、切るつもりなんだ……、ううん。似合ってるわ。その……、ドキドキするよね。ちょっと大人びたっていうか。格好いいと思う」
憧れちゃうな、とにっこりするエウルナリアには、こちらこそ目を奪われる。
ロゼルは正面から向き直り、遠慮なくまじまじと眺めた。
雪花石膏の如き肌。ゆるやかに波打つ黒い髪。深青の瞳。造作においては言わずもがな。素晴らしくうつくしい少女に育った。
育てたわけではないが、会うたびに絵に写し取ってきた彼女はこれからも、目をみはるほどうつくしく羽化するだろう。
それを、つぶさに。
「……描きたい……。うっかりした。私としたことが、なんでスケッチブックを忘れてきたんだ」
「ロゼルの『うっかり』は、かなり珍しいよね。何かあった?」
「なくはない」
「あるのね。さ、お話して?」
「話してもいいけどさ」
ちら、とまなざしを左右に送る。
グランはすでに、うつらうつらと眠りそうだがレインはしゃん、と立っていた。使用人らしく無言だが、やたらと姿形が美々しい。存在自体がうるさい。というか、立ち入ったことは聞かれたくない。
ロゼルは声をひそめた。
「……こいつら、置いて行ってもいいのなら。バード邸の冬の庭は雪がいっぱいで綺麗だし、案内してよ。話すならきみと二人がいい」
「まぁ」
青い目を丸くした少女が、ころころと笑い出した。「喜んで」と付け加える。
立ち上がり、おもむろに従者に言い添えた。
「ごめんねレイン。私のコート、持ってきてくれる? ロゼルと散策してくる。あ、グランには何か掛けてあげて。窓辺は冷えるわ」
「畏まりました」
落ち着いた微笑をたたえて頷き、すっ、と通路に姿を消すレイン。
優秀な側付きらしく、空色に白い毛皮の縁取りがなされたふかふかのコートを手に、サロンに戻ったのはすぐだった。
「さ、行きましょうかロゼル」
にこにこと笑むエウルナリアに目を細め、自身も控えていたらしいメイドから、預けておいたコートを着せてもらう。
「うん。……では。お手をどうぞ、姫君?」
ことさらに甘く、令息らしく。
小首を傾げたロゼルはエスコートのため、やさしく右手を差し伸べた。




