30 馬車のなかで
『帰る。行こう、先生。用件は終わった』
入室しての第一声。
皇子の私室に残ったイデアの元には、話し相手として扉を守っていた騎士の一人が一緒に卓についていた。
第一皇子不在でこの状況は、普通ならあり得ない。ノエルの、普段から尋常ではない部下に対する気安さが伺える。
『お疲れさまですロゼル殿』と、微笑で労う壮年の騎士に会釈を返し、ちらりと壁際の柱時計を眺める。午後四時四十分。
(三十分きっかり。あのマイペースさ。――うん、レガートは安泰だな。暗愚どころか末恐ろしい主導権の握り方だ)
胸の裡は、ノエルへの称賛じみた皮肉大会になっている。うっかり口をひらけば不敬罪に問われそうだった。
『勿論です。……私にまで茶をお振る舞いいただき、ご馳走さまでした。失礼を』
いつもより明らかに機嫌の悪いイデアが形式にのっとった挨拶を述べる。同席していた騎士も立ち上がり、互いに礼を交わした。
そこからは機敏だった。
息をするより滑らかにロゼルのコートをとり、彼女の背中側へと立つ。
『ん』と、当然のように袖を通す教え子の頬を見下ろし、若干難しい顔のまま、みずからも藍鼠色に染められた毛織りのコートを羽織った。
『気を付けて、お帰りを』
そう告げて扉を開けてくれたのは、廊下側に立っていたもう一人の若い騎士。
扱いは皇子の友人の、どことも知れない貴族の少年へ対するものに相違ないのだが。
(名前、あっさり呼ばれたな。ひょっとしたら、かれの側近は全部知ってる……?)
疑いが確信に変わるのに、そう時間はかからなかった。
長い、磨き抜かれた廊下を品位を崩さぬ程度の早足で歩く。隣でそれに合わせるイデア。
いつもなら花が咲くようにさざめいてすれ違う皇妃取り巻きの貴婦人らや、女官の類いにまったく出会わない。
厳重な人払いがなされていたのかもしれない。万が一にも今回の求婚が漏れぬよう。
同時に、それとなくロゼルや供のイデアを気遣えるよう。
――だとしたら。
キーラ邸に届けられたあの肖像画とカードは正しく招待状だったのだ。
知らず、激昂のうえ相手に乗せられてしまった己の浅慮に内心で歯噛みする。
「用意周到にも程がある。やばいね、ノエルは思った以上に策士だ」
呟く声は苦みばしって低く、男装の少女をどこまでも甘さのない、実年齢よりも練られた少年に見せた。
イデアは、濃い灰茶色の眉を銀縁眼鏡の上辺に隠れるほど下げる。すると、ひどく気弱で人の善い青年に見えた。
「……知ってます。あの方の父君もそんな型ですから。ロゼル様、何を言われました?」
「馬車のなかで話す」
簡潔な物言いに、これ以上の会話はないなとイデアも悟った。
やがて、あちこちに蜜蝋の灯火が飾られ、暖かみのある宮殿の表側へと出る。――奥宮にはやはり、ひとが少なかった。
外に出て、定められた場所に待機していたキーラ家の馬車にすみやかに乗り込む。
御者の小気味よい掛け声とともに、繋がれた二頭の馬は雪を踏みしめてのんびりと歩き出した。
* * *
黒塗りの箱馬車は、白と灰の二色使いの冬の光景にしっくりと溶け込んでいる。
街道脇に等間隔で並ぶ、細長い黒鉄の街灯に明かりが点され始めた。
降り続けるぼたん雪。
厚い雲が遮る弱々しかった光はすでに日没の気配。家路に急ぐ通行人や馬車の行き交う雪まみれの主街道を、オレンジがかった灯火がやさしく彩る。
皇宮を発ったキーラ家の馬車は、まっすぐに屋敷を目指した。南下するだけだ。ものの十分もあれば見えてくる。
しばらく、じっと待ってみたが車窓を眺めるロゼルはなかなか口をひらかなかった。
イデアは仕方なく水を向けてみることにする。
「……して。殿下は何と?」
「真剣な求婚だった」
「でしょうね」
特に驚かれなかったことが意外で、ロゼルはようやく窓から視線を外した。真っ直ぐに左隣に座る師を見つめ返す。
――ずっと、見られていたんだろうか、と。
(だめだな。今日は本当に不甲斐ない)
ほろ苦く笑む口許に。目許に、えもいわれぬアンバランスな色彩がこぼれるのを意識せず、ロゼルは無防備な声で問う。
「知ってた?」
「それはもう。あの方は僕を邪険になさいますし。実に疎まれているな、と」
ぱし、と焦げ茶色の睫毛が閃いた。年相応な幼さで首を傾げる。
「……それだ。なぜ? ノエルも言っていたが、『あの男のいない場所で話したかった』と。意味がわから――」
「意味。教えて差し上げましょうか?」
「待て、何を」
ふいに、普段は温厚な水色の瞳がレンズの向こう側で据わり、色あいを変えた。
見慣れた顔とそれなりに引き締まった上半身が近づく。馬車の揺れはさほどじゃない。明らかに、故意に距離を詰められている。
目の前を藍鼠色の、大人の男性の袖が通りすぎた。
背中がひやり、と馬車の側面へとぶち当たる。これ以上は退けない。
イデアが反対側の腕で左頬の横の壁に肘をついた。眼鏡に、ひどく少女めいた自分の顔が映る。そのことに二重に驚愕する。
「せん」
一瞬だけ、イデアが痛みを堪えるような表情をたたえた。けれど、すぐに見えなくなった。
「目を、閉じてください」
「……え」
言いつけに従ったわけじゃない。断じてない。
なのに。
やたらとゆっくり、いとおしむように唇を塞ぐ馴れない感触に。爆発する感情に。
目を閉じて真っ白になった思考は、あっけなく置いてけぼりを食らった。