29 忘れないで
頬に触れる温もり。今までにない至近距離の直接接触。
ロゼルは、ひたすら驚いた。
(……え?)
やさしく。逃れがたい拘束感で自分を抱き留める四つ年上の第一皇子を、信じがたい思いで見つめる。
将来の主君として慕わしく、生涯を通して誠実に仕え、支えたいと――キーラ家の跡取りとしてずっと考えていた。それを、根底からがらがらと覆される。
「……本気ですか」
「もちろん」
「あの。私は家督を継ぐつもりなんですが」
「その点は、父からイヴァンに頼み込んでもらってる。きみが絵を心底好きなのは知ってる。でも、それは皇宮でも続けられる。芸術の都で、絵画に秀でた皇妃なら尚いい。そう思わない?」
「……」
とっさには反論できず、ロゼルはゆるゆると目線を降ろした。
(どうしよう)
ノエルはまだ離してくれない。記憶するより大きな手とがっちりした腕の感触に、否応もなく性差を思い知らされる。
結局は、自分は女なのだと。
(――……っ……!)
今さらのように耳が熱くなった。
やばい。色々とやばい。この場面での自覚は非常によろしくない。
少女の劇的な変化に、赤くなった耳を見下ろしたノエルは意外そうに目をみひらいた。
「あの、殿下」
「なに」
「私は……女扱いされるのに慣れていない。とりあえず離れましょう。離してください」
「なぜ?」
きょとん、と。
とても不思議そうな皇子の声音に、逆にロゼルが戸惑う。頬をうっすら染めたまま整った顔を睨みあげ、できるだけ抑えた声量で訴えた。
「ご存知ないんですか? 私は、ここでは男だと認知されてる。女官にも。ご弟妹にも」
「そうだね」
「男と『こんなこと』するって、噂になったらどうするんです。……その、見られたら」
「いいね。誰か、スルッと通りがからないかな。とびきりお喋りな女官とか。国外まで一気に広めてもらわないと」
「……!! 殿下! お戯れも大概、に……ッ?!」
「戯れじゃない」
妙にきっぱりと言い切ったノエルが、すぅっと身を離した。
よかった、一安心――と思いきや、近くの扉をカチャリ、と開けられる。滑り込むように中へと押し込まれた。
(?!)
声は出せなかった。
カーテンがぴっちり閉まっているので薄暗い。きょろきょろと見渡すと、さほど広くない小部屋だと知れる。
「ここ、は……」
思い出した。
ここは、ノエルに謁見を望むものが通される控えの間だ。だから応接間の体でもない。言うなれば待ち合い室。落ち着いた花模様のソファーと大理石のローテーブルのみが中央にしつらえてある。
カーテンを開ければ、深い紅色の絨毯があざやかに部屋を彩るはず。ここを特別な空間と演出するのには、それで充分だった。あとは品のよい絵皿や静物画が数点、壁際に飾られている。
そこで、はたと気づいた。
まだ手を握られている。
「? ……殿下?」
「『殿下』はやめて。座ろうか。冗談抜きで、あの男のいない場所で話したかったんだ」
手を引いて促されるまま、すとんとソファーに腰を落とす。その無防備さに苦笑しつつ、ノエルも並んで腰かけた。
なんとなく、逃げられたくなくて手は握ったまま。みずからの膝の上に置き、さらにもう片方の手で包み込む。
ロゼルは上目遣いで、ひっそりと問いかけた。
「……かれが、殿下に何かしましたか?」
「次に『殿下』呼びしたら、押し倒して口づけるね」
「すみませんノエル」
「……」
色気もなく真顔で謝罪するロゼルに、何とも言いがたい笑顔になるノエル。
まぁ、しょうがないか――と、吐息して続けた。時間は限られている。色々な意味で。
「リース氏のことは置いといて……結論から言おうか。父と約束した。正々堂々ときみに求婚することは認められてる。代わりに、きみが私を選ばなければ諦める。無理強いはしない」
「無理強い、ですか」
そのわりには、先ほど脅されたような……と、渋い顔になるロゼル。
くすっと笑ったノエルは、右手を彼女の手のひらから離し、ソファーの背凭れに掛けた。ちょうど、彼女の背に手を回すように。
ぴくり、とロゼルが反応する。――警戒された。
引きそうになる身体を、手を。みずからの膝の上に縫い止めた左手で押さえる。少年に見えても柔らかい、瑞々しい少女の手だった。
なんとなく、指に指を絡める。
想像以上に繊細な感触をうっとりと味わった。
「…………お返事、は」
「あとでいい。今聞いて、今答えられるものでもないでしょう?」
「……はい。あの、で……じゃない、ノエル。離してもらえませんか。お願いですから」
「いいよ」
膝の上の手をどかす。
ほっとした気配が伝わり、自由になった彼女の左手はあっという間に去っていった。
けれど。
「??! ぅわっ! の……ノエルっ!」
背に回した右腕で、強引に彼女を引き寄せた。
つよく。固く抱きしめて耳許でささやく。
「忘れないで。きみが好きだ。諦めることになったとしても。……本当は無理矢理にでも。誰にも渡したくなんかない」
――――ちっとも引っ掛からず、『殿下』と呼んではくれなかった。その賢さと冷静さが、今はちょっと憎らしい。
(残念。口づけられなかったな)
ぎりぎりで、あと一歩。
ほんの少しの身じろぎで触れられる温かな場所に、踏み込んで自分を刻みつけられない。己れの紳士さ加減にどうしようもなく呆れ、肩を落とす。
ノエルは嘆息とともに力を抜き、ことん、と彼女の首筋に額を当てた。
森のような。
澄んだ木立と工房の匂い。外の雪の香りがした。




