2 ロゼルの悪戯※
「え? 父上が、今日?」
振り向きざまに問い質す。
勢い余って焦げ茶の巻き毛が白い寝間着の肩をするり、と滑った。
エウルナリアと会った翌日のこと。
今日はどんな退屈な課題を出されるのか……と、げんなり身支度を始めた、そのときだった。
専属侍女の女性は「えぇ」と頷く。
「何でも、急遽ロゼル様にお引き合わせしたい方を見つけたと……奥様もお会いになられたそうです。『いいんじゃないかしら』と、仰ってましたよ」
「そう。いつ来るって?」
「昼前かと。昨日レガティア芸術学院の美術科を卒院なさった方だそうです。今日の午前、寮を引き払ったらそのまま、画伯様みずからお連れすると伺いましたので」
「急だね。拉致だよ、それ。よほど気に入った相手か……わかった、会う」
こくり、とロゼルは頷いた。いつの間にか寝間着は脱がされていたので肌着姿だ。
そのまま、差し出しされた深い紺色に白い襟飾りの付いたワンピースに袖を通そうとして――ふと、止める。
旧家の令嬢然としたワンピースだ。なんとなく今の気分にそぐわない。
ロゼルはしばらく思案したのち、それを軽く畳んで返してしまった。優秀な側付きでもある彼女に他意なく、にっこりと笑いかけてみる。
「ちょっと試してみたいことがあるんだけど。いい?」
後日、彼女はこのときのことを、ちょっとだけ複雑な表情で思い出すことになる。
―――本当に、ただの思い付きだったのだ、と。
* * *
多忙を極めるキーラ画伯は、年の大半を諸外国で過ごしている。
かれ個人が有する精緻な画力と、芸術の国と名高いレガートで、唯一画伯の名乗りを許されている揺るがぬ事実。それらは絶妙に噛み合い、他国の王候貴族や令嬢方によって一種のステータスとなっていた。
―――つまり家の箔付けや、己をより魅力的に見せるだろう肖像画の描き手として。
ゆえに。
今日、末の娘と邸を任せた奥方に会うのは久しぶりだった。口許が緩むのを禁じ得ない。
老家令の報告に耳を貸しつつ邸内を歩き、目当ての部屋の扉を開ける。――あとはもう、笑むだけだった。
そこに、すぐ目の前に。
変わらずうつくしい妻がいる。
かれは『ただいま』もすっ飛ばして大股で近づくと、勢いのままに彼女をかき抱いた。
「ミシェル……! 会いたかった……っ!」
名を呼ぶと、くすくすと笑う声。
妻の声は落ち着いてやや低い。末の娘も、女児にしては落ち着いた声と口調の持ち主だ。
ミシェルと呼ばれた女性は、夫の背に手を回しつつにこやかに問いかける。
「お帰りなさい、あなた。昨年の冬に会ったきりかしら。どう? 東は」
「どうもこうも。どこのご令嬢も奥方も、最愛の君にはもちろん劣る。決まってる、と、も……!!! 痛ぅっ……いたた! すまん、何でもないッ!!」
「ですわよね」
末の娘にそっくりな、巻き癖のある焦げ茶の髪を短く襟足で整えた壮年の男性は呻いた。
愛しい妻を抱擁しつつ、訊かれたから顧客となったご婦人がたについて所感を述べた。
ただそれだけで腕を捻りあげられる夫など、世界広しと言えども自分くらいだな……と、みずからを憐れみながら。
「お手柔らかに頼むよ。商売道具なんだから」
「そう? 利き腕はやめて差し上げたのに? そもそもの商売道具って、こちらじゃないかしら」
左肘をさする当主の頬に、ミシェルはそっと左手をあてた。
高い上背。精悍な、日に灼けた肌。長旅の連続で些かくたびれてはいるが、目許をつよく印象付けるきりりとした眉や、深いまなざしを湛える茶色がかった緑の双眸は魅力的だ。少し厚めの唇も。
画家というには少々野性味のある男性。
キーラ画伯家当主――イヴァンは、四十路半ば。まだまだ働き盛りだ。
ふ、と笑む妻の顔に、(そう言えば、あの子は造作や仕草なんかは全部母譲りだよな)などとぼんやり考えていたイヴァンは、事ここに至って漸くハッ……! と、気付く。
今日の用件を思い出した。
「ロゼルは? あいつを連れてきたんだけど」
「いるわよ? 二階のあの子の部屋に。行けば会えるわ。
……あぁ。でも、とっても可愛らしい悪戯をしていたわ。本当に可愛かった。あなた、何を見ても黙ってらしてね?」
「なに、いたずらって」
「秘密」
うふふ、と。
奥方は一転、娘達のだれにも未だ真似できぬだろう蟲惑的な笑みを、あざやかに浮かべた。
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※思わず描いてしまったイヴァンのイメージはこちら。