25 色恋どころじゃ、ないんだ※
――やっぱり、壁画くらい描けないと一人前とは言えないよな、と。
光源を右手に見上げる一面の壁は、風景と化していた。
手前に朝露を乗せて輝く、つやつやとした丸みのある緑葉の茂み。まるで分け入って、絵の奥へと進めそうな臨場感がある。
そっと、ロゼルは葉に手を当てた。ひやりとつめたい漆喰の感触。絵を描きやすいよう平らに均された壁は、何処にも凹凸がない。
視線を左側の中央へと移す。午前のこの時間、窓から射す光の向きは絵のそれと合致した。
(先生が、大抵この時間に描いてたからだ)
今度は左手でなぞる。砂浜にわずかな足跡が刻まれている。点々と、手前から奥へと続く大小の二人分。
波打ち際に沿ってやや円をえがくような軌道に従うと、左側上方向に母子がいた。
ミシェルと――――
(わたし)
きゅ、と壁の砂浜をなぞっていた左手を離し、握る。
胸の奥が掴まれたような。
なぜか泣きたくなるような。
――遠景らしく、やさしい色合いでぼかしてある。その表情の仔細は伺えぬはずなのに。
見上げたまま、ロゼルは空いた左手で胸元の布地をくしゃりと握り込んだ。
「いつも……いつも、イデアは目指す先にいるんだな」
いつぞやの、学院に架けられていたかれの作品を初めて見たときほどではない。
制作の過程をともにしたのは大きい。
が、それを引いても余りある彼我の差は歴然としていた。
――もっと、いろんなものを見ないと。描かないと。試して取り込み、己のものとしないと。
「……」
しばし、深く目を閉じてひらく。
深緑の瞳にすでに、泣きそうな影はない。
きつく、定めた視線の先でほほえみ待ち受ける師の姿を、絵のなかの母と自分にかさねた。
かれは今、そばに居ない。
* * *
「寂しそうだね」
「……そうですか? あ、ノエル様。動かないで」
「はいはい」
木炭のチョークで、気軽に差されてなおご機嫌な第一皇子殿下はほくほくと答えた。
ひとめで、皇子がこの少年を気に入っているのだとわかる声音に女官の誰もが頬を緩める。
さる貴族筋の、画家を志す少年だという触れ込みで皇宮に連れ込まれるようになって二年が過ぎた。
最初こそうろんなまなざしを向けられることもあったが、北の大国で留学中の世継ぎの皇子が帰国するたび、それは大事そうに招くやや年下らしい友人を無下にするものは、今では居ない。
皇子の自室。今は夏。
ロゼルは十二歳。ノエル皇子は十六歳。少し童顔なのを気にしているらしいが、内実は十二歳の少女でしかないロゼルから見れば、立派な少年と言えた。
ずし、とモデルになっていたはずのかれの手が肩にのし掛かる。重い。
「……なぜ、こちらに?」
「なぜって」
ふふっと悪戯そうに微笑う表情は、出会ったときと変わらない。そのことに、ついロゼルの瞳も和む。
きゃぁぁああ……と、どこかで複数の歓声があがった。
(? 面白いことでもあったかな)
漠然と思いを巡らせ、凛々しい美少年にしか見えない令嬢は何となく瞳をすがめ、唇の端をわずかに上げた。
「…………本当に、困った子だね」
あくまでも本人は無自覚な、透明でふと香るような色彩。その危うげな魅力に磨きがかかっているような……と、皇子は苦笑する。彼女の額にこつん、と額を当てて。
「寂しそうなのは、あなたに見えますが」
「そう?」
至近距離で笑む琥珀の双眸は深く、揺らめくような色合いを湛えている。
間近で覗き込むと、父がたまに飲んでいる蒸留酒のようだと感じた。
……このまなざしに、酔っていいのは未来のこの方の妃だけ。ロゼルは感慨深げに(今だけだな)とそのうつくしさを堪能した。
過ぎる一瞬の美も。儚さも。すべてこの手で画布にとどめられたらと願う。切に。
「――これが描き上がったら、白夜国にお送りすれば良いですか? それとも、皇妃様の元に?」
視線を描きかけの絵に落とす。
まだまだ未完成のこれは下描きにすぎない。やがてもう少し大きなキャンパスに写し、色付けする。油絵か、水彩か顔料か――ひとしきりロゼルは思案した。
ノエルは、くすっと耳元で笑う。いつの間にか左肩に頭を乗せられていた。「いつか」と呟く吐息を聞き漏らし、ロゼルは怪訝そうに問う。
「……ノエル?」
時おり、ごくまれにその場の雰囲気で敬称を取ることがあった。本人からは『もう、敬語もいらないのに』と言われていたけれど。
しずかに目を閉じた少年は、ほんの少しだけ声を深め、絵に夢中な少女の心に届くよう、甘えるように囁いた。
「いつか。私の妃となるかも知れない方に、婚約の打診とともに届けるそうだよ。だから――宛先は父かな。キーラ卿……イヴァン経由でもいい。いつでもいいんだ。ゆっくり描いてね」
「! わかり……ました。肝に銘じて」
大役ですね、と溢す少女に。
ノエルはやはり、困ったようにほんのり眉を下げて見せた。




