24 すれ違い、追いかける瞳
――ロゼル様は、ノエル殿下がお好きなんですか?
窓辺にかかる真夏の陽射しは、日陰から見ても目が眩むほど皓い。
いつも通り師の作業を眺めつつそれとなく手伝っていると、ふとした合間に訊ねられた。
涼気を含む午前の微風が少し高めの位置で結った髪の下、うなじの辺りを通り抜ける。
手元には塗料を混ぜたブリキの小さなバケツ。空の缶がいくつも転がっている。
いくら残す作業行程があとは細部の描き込みのみとはいえ、対象が壁一面となると同じ色でも使う量が半端ない。
ロゼル自身はここまでの大作を手掛けたことはない。そのため、師の一挙手一投足が一々興味深かった。
なので、ぱちり、と大きく瞬いたあと。
青年の声は数拍遅れでロゼルの全身へと行き渡った。(?)と、たちまち難しげな顔になる。
「質問の意図がわからない。それは、この絵に関係すること?」
「絵に関係がなくては、訊いてはだめですか?」
問いに問いを重ね、ぴたり、と手を止めたイデアは肩越しに振り向き、困り果てたような視線を流した。ロゼルはますます不機嫌顔となる。
「別に……、だめじゃないが」
このひとは時々、本当によくわからない。
ロゼルはこっそり溜め息をついた。
イデアは、今日は壁の上部ではなく左右の近景を塗っている。ラフな白シャツ。作業用の濃い色合いの丈夫そうなズボンは塗料まみれ。
『前掛けも邪魔なので、大作だと最終的にはこうなっちゃうんですよ』と、朗らかに笑っていたのが一昨日。ノエルに招かれた日の午前のことだった。
いわゆる集中状態になると顕著なのだが、かれはこと絵に関しては饒舌だ。
なので、絵を描くイデアの側にいるのは楽しい。ぽんぽんと柔らかな声音で、嬉しそうに創作のあれこれを話す師は図体ばかりがでかい同年代のようで嫌いではなかった。むしろ気に入っている。時おり、こちらの存在を忘れたかのように絵と向き合い、一言も発しないときがあるのも。
――その沈黙には意味があり、かえって心地よい。
(好き……と、いうのかな。こういうのも)
砕いた固形顔料を丁寧に摩り、なめらかにしてから水で溶く。そうして出来上がった乳白色と褐色のバケツを二つ並べて――と、せっかく嬉々として作業していた手を止めるのは本意ではなかったが、ロゼルは律儀に考え込んだ。同時にぽろっと溢す。塗料ではない。言葉を。
「殿下……ノエル様は将来お仕えすることになる大切な方だ。好きだの嫌いだのはこの際関係ない。好ましい方で良かったとは思うけど。……好き、というのは人間として? それなら私は、貴方のことも好きだ」
ゴンッ!!
「? ちょ、大丈夫!? 凄い音がしたよ??」
「あ、はい。いえ、だ……大丈夫です。すみません」
――――『貴方のことも好きだが?』と、続けようとした。その言葉を途中でぶった斬られた少女は大いに戸惑う。そもそも、ちっとも大丈夫に見えない。
やれやれ、と嘆息し、刷毛とバケツを脇に置く。
床に直接座っていたためずっと見上げていたが、いい加減疲れた。確認事項と休憩がてら身軽に立ち上がり、さっさと師の左隣まで歩を進める。
「……っ……ロゼ、ル様……?」
若干引き気味のイデアに構うことなく、最近めきめきと背が伸びたロゼルは瞳をすがめて青年の顔を覗き込み、額にかかる灰茶色の前髪をそぅっと指で退かした。
「ロ……」
「うん。赤くはなってるけど色移りはしてない。良かったね、ぶつけたのが乾いてるとこで」
「…………」
いちおう壁面も厳重に確認する。
――大丈夫。剥げてはいない。
表情を緩ませ、安堵の息を漏らしたロゼルは壁に向かって背伸びしていた体勢を戻した。
すると、なぜか盛大にしゃがみこむイデアの旋毛が視界に映る。しゃがんでも、でかい。
……なぜだろう。大の大人をいじめてしまったような罪悪感に駆られる。ちょっと脅かし過ぎたかな? と、若干声を和らげた。
「平気だって。はげてないよ?」
「いや、流石にそこまでは……白髪なら生えてもおかしくないくらい滅入ってますが」
「若白髪? その歳で? 苦労性だねイデア・リース先生。父に言っておこうか? もう少し休日をあげたらどうだって」
左手でパレットと筆を重ねて持ち、右手でおそるおそる頭頂部を確認していたらしいイデアは、気のせいでなければ潤んだ瞳で教え子を見上げていた。
「ほんとに……何故なんでしょうね」
独り言に近い響き。
呟く声音にはだだ漏れの哀愁が漂っており、なぜか、妙に放っておけなくて。
「……しょうがないなぁ」
ロゼルは再度歩みより、十も歳上のかれと目線を合わせるようにやんわりと片膝をついた。ぶつけて赤くなった額を避け、こめかみに近い側頭部をやさしく撫でてみる。
「何を悩んでるのか知らないけど。ちゃんと休暇とりなよ。うちの邸で、夏期休暇とってないの先生だけだからね?」
「――……!」
腕捲りしたシャツの袖から覗く手首の内側は透けるように柔らかな肌色で、つい目を奪われる。至近距離で、歳のわりに落ち着きすぎる口調に耳を傾けるのもとても危うかった。
精一杯の理性を総動員し、イデアは微動だにせず懇願する。
「休暇は……要りません。どうせ、貴女が気になって仕方なくてやきもきするだけですし。出来れば、今すぐもう少しだけ成長していただきたいんですが」
「……」
「…………」
途端にひらく、微妙な間。
ロゼルは耐えきれず、弾けるように先に破顔した。
「……フッ…………あっははははっ!! ほ、ほんと失礼だな先生は。見てなよ、あっという間にそこまで面倒見なくてもいいって思えるくらい成長してみせる。なんなら貴方が請け負ったというもう一つの……隣の部屋? 私が手掛けたっていい。どうせ、描かなきゃ上手くならないんだし」
「えっ!! いやいや。そうではなく……!
――いえ、それならもう少し手ほどきしないと。一緒に作業したほうが最短で身に付きます。だめですよ、まだ貴女に壁画は任せられない」
表情を一変させ、すっくと立ち上がったイデアはやはりそこそこ長身で、少女も追うように腰を上げる。
横顔は遠い。背筋を伸ばしても尚、見上げねばならない。
(……悔しいな、いつまでも。こうして見上げっぱなしってのも)
俄然やる気を取り戻し、みずからの画に挑む銀縁眼鏡の青年に。
ちいさな画家の少女は猫のような深緑の瞳に、挑戦的な光を閃かせた。




