23 抱擁と愛称
ノエル皇子は有言実行のひとだった。
あの春の宵。
皇宮晩餐会の数日後、予定通りレガートの北に位置する大国白夜へと発ったかれからの、これは二通目の手紙だ。
まだ目を通していないが、一通目の内容は『お元気ですか? 先日は――』から始まる、実に飾らない文章で礼節に沿う内容のものだった。ロゼルも日を空けずに返事を書いている。
白夜は遠い。
広大なレガート湖の北の畔を囲むように、東西に伸びる長大な峰を連ねた白雪山脈の向こう側。一年の半分を雪と氷で閉ざされる極北の大地までも領土に治める国の首都は日向という。比較的温暖な地域らしい。
それでも『――寒いです。レガートで貴女と踊ったときは心温まる春だったのに、ここはまだ冬でした』などと流麗な文字で綴られているのは可笑しく、思い出したロゼルはクスッと笑った。
銀縁眼鏡の教師は、それを複雑そうに眺めている。なんというか――年相応の。しかも、咲き初める蕾じみた笑みだったので。
イデア自身、なぜ自分が複雑になるのかを掴みきれずにいる。
(教え子に、独占欲……? いやない。ないない、あり得ない)
ぶんぶん、とやたら真剣な顔で首を横に振る青年に、ロゼルは訝しげに尋ねた。
「大丈夫? 先生。なんか変だよ」
「……変かも知れませんね。……大丈夫じゃないかも」
「えっ」
大きくみひらかれた深緑の瞳は子猫のようなアーモンド・アイ。このひとは、驚いた瞬間が一番無防備な表情になるな――と、イデアは改めてじっ……と少女の顔に見入る。
ロゼルは脚立の足元から青年を見上げ、居心地悪そうに一転、むっとした。
「ノエル殿下の仰ることは本当だな」
「何がです?」
「晩餐会のダンスのとき。ホールドされたときに言われたんだ。『あんまり異性の顔を覗き込んじゃだめだよ』と」
「……なぜ?」
あの至近距離で。そのまなざしで。
皇子の顔を、ぐいぐいと覗き込んだんですか……??! ――……とは流石に言えず、イデアは優しく訊き返す。
ロゼルは不機嫌そうに顔を伏せ、ふいっと目を逸らした。
「『勘違いする』んだって」
「!!! (ぅぐうぅっ)……!」
――――なんだこれ。
何なんだ、この破壊力。おかしいだろ、この十歳。
なんで、まだ十歳なんだ? と。
ずっと見ないように。触れないようにしていたその部分に思考が到達したとき――――イデアは諦観した。打たれたように悟ってしまった。
おもむろに脚立から降りるとくるりと振り返り、呆気にとられる少女へと向き直る。水色の瞳はまだ戸惑いから抜け出せないような、もどかしい光を宿していた。
「? せんせ……?」
右手に食べかけのサンドイッチ。左手にパレットと筆を持つ教え子は動けずにいる。元から近い。イデアは迷うことなく更に距離を詰めた。瓶は脚立の上へ、見もせずに置く。
「わ」
「本当に……貴女というひとは!!」
シャツ越しに伝わる、まだ低い位置にある吐息とぬくもり。柔らかさと線の細さ。
――止められなかった。
イデアは、勢い余って主家の令嬢を抱き締めてしまった。
* * *
「……で? そのあとはどうしたの。ちゃんと、逃げたんだよね?」
『夏期休暇なので、この手紙が着く頃は帰っています』―――そう記されていた二通目の文面どおり、ノエルはレガートに一時帰国していた。
今、ロゼルは皇宮の一室に招かれている。
そもそも手紙は皇子主催の茶会の招待状でもあった。招待客は自分一人と知らされていたので気楽なものだ。
イデアに抱擁されたのはこれで二度めのはず。特段珍しいことでもないかな、と小首を傾げた少女は、昨日の自分達をじっくりと回想する。
「逃げ……? いえ、結果的には逃げられましたよ。一方的に平謝りしたかと思うと、急に後ろを向いて突っ伏してしまって。挙げ句、『なぜ為すがままなんです……!!』とか、責められてしまって」
「ほう」
カチャリ、と茶器を受け皿に戻す皇子の声が低い。
「訳がわかりません」
スゥッと右手に持ったままだった茶器を顔に寄せ、優雅に唇を当てるのは令息姿のロゼル。
平服で、と招待状にあったので。
ノエルは細く嘆息し、大人びた仕草で頬杖をついた。斜めに傾いだ視界で、まじまじと少年にしか見えない令嬢を眺める。
(今、その教師は二十歳。相手は十歳で、普段この装いだというロゼル嬢。――まずいな。間違いない)
黙り込み、思考の海に沈んだらしい銀の髪、琥珀の瞳の皇子にロゼルは問いかけた。
「殿下? どうなさいました」
「あ、うん」
きちんと現実に戻ったらしい普通の返答に、予想以上にほっとする。
年上で身分も上。しかも将来は主君として仰ぐことになる少年だ。できるだけ親しくなりたいと思う。
―――いっぽう。
未来の臣下か、或いは別の存在としてなのか。
未だ量りかねる胸の内にわくわくしつつ、ノエルは悪戯っぽく微笑んだ。
「ノエル、でいいよ。きみには名を呼ばれたい。――『ロゼル』……だと何だか微妙に似ててややこしいな。『ロゼ』と呼んでもいい? ロゼル嬢」
「え? はい。構いませんが……ええと……、ノエル様?」
「うん。なに、ロゼ?」
「……」
あまりにしれっとした自然な受け答えに、キーラ家の未来の当主はフフフッ! と声に出して笑った。
それもまた堂に入っており、凛々しい少年が緩んだ瞬間のようで絵になっている。
まるで、一見仲睦まじい学友のように。
親しくなる二人の姿があった。




