22 少年と少女の狭間で
夏。
キーラ画伯の第三息女付き家庭教師として邸に住まうようになり、三度目の季節が巡る。
一度目は家業の手伝いに駆り出され。
二度目は当主イヴァンの供として東国へ。
そして三度目――イデアは今年、邸のなかで大作に取りかかっている。壁画だ。
『何かこう、客がびっくりするような部屋にしたいんだよね』
茶目っ気たっぷりに深緑の視線を投げ掛ける雇い主の表情がありありと浮かぶ。
とはいえ、イデアは元々こういった大きな仕事が好きだ。我ながらそつなくどんな顧客の需要にも応える絵描きだと自負しているが――
(やっぱり、楽しい)
瑠璃石を粉にして溶いた、目の覚めるような青金。上質な顔料を元にしたけぶる水色。南方の貝殻から採った光輝く白に、孔雀石の緑。
なるべく退色せぬよう、かかる元手に糸目はつけていない。厳選された素材ばかりだ。
広げた脚立に、直接腰かけている。
一面の壁。上部は刷毛で着色済みだ。
全体的に、すでに大まかな配色は済んでいる。あとは細部に至るまでの陰影や濃淡、距離感を出して――と、ぼんやり考えていると、窓辺から複数の話し声が伝わった。
若い。
幼い、から少し成長したくらいの。
ここは二階の中庭に面した部屋。いわゆるゲストルームだ。すべての家具を取り払い、がらんとした室内に、さまざまな画材の匂いが立ち込めている。
(一応、換気しとこうか)
レガートの夏がいかに過ごしやすいとはいえ、些か、むわっとする。
脚立から降りたイデアは木製のパレットと筆を直に床に置くと、窓辺に近寄った。
――カチリ。
施錠を外し、幾何学模様の摩り硝子を押し開けると、冷涼な風とともに先だっての声がより身近に届く。
複数の少年。それに少女だ。
ふ、と目許を和ませる。
そのなかに貴公子さながらの教え子の声を耳が勝手に拾い。つい、呟いた。
「勇ましいな……お客の少年がたじたじじゃないですか、ロゼル様」
微笑ましくも気の毒な応酬。イデアはくすくすと笑う。
――どうやら、隣家の親友エウルナリア嬢の供として訪れた新顔の少年をやり込めているらしい。
整然と刈り込まれた茂みと木立の向こう、可愛らしい黒髪の令嬢がロゼルに勢いよく抱きついている。
栗色の髪の従者の少年は、慣れているのか知らんぷり。
ロゼルとは初対面らしい赤髪の少年がその肩に手を添え、何事か耳打ちしていた。
賑やかなやり取りはその後も続いたが、イデアは微笑みつつ窓辺をあとにした。
声は、風に乗り容易に届く。
再び足元のパレットを広い、脚立に向かった。
* * *
「ただいま」
「お帰りなさいロゼル様。今日はまた、一段と令息ぶりに拍車がかかってましたね」
休憩らしい休憩も取らず、淡々と作業に没頭するイデアを気遣ってか。
邸内に戻ったロゼルは使用人に頼まれたのだろう、紙で包んだ軽食と瓶を抱え、師の制作部屋へと入室する。
もはや、開け放した扉をノックすることもない。――単に、両手が塞がっていただけとも言えるが。
軽装だ。
白の半袖シャツチュニックに細身の黒いズボン。ただし足元はきちんと革靴。涼しげなペールグリーンの薄手のジレをまとっている。
首もとは濃い茶色の革紐に、銀の留め金のループタイ。瞳の色と似通った小粒の石が先端で揺れている。
ロゼルは目を細め、ふ、と鼻で笑った。
「仕方ない。エルゥにまた、新しい虫が付いたから」
「あぁ……赤髪の少年ですね? 騎士見習いの装束でしたが。あ、どうも」
あちこちに散らばる塗料の缶やバケツを器用に避け、近寄るロゼル。
「ほら」と無造作に差し出されたサンドイッチの具がこぼれぬよう、イデアは慌ててかぶり付いた。
もぐもぐと咀嚼しつつ――突如、ハッとする。
(しまった……! これって、いわゆる“あーん”じゃないか?? こんな女の子に??)
――ごくん。
中途半端に小さくなった塊ごと飲み込んだ青年は内心で焦りを募らせる。が、少女の給仕は容赦ない。
「ん」と、今度は葡萄酒の水割りが入った瓶を差し出された。真顔だ。
(えぇっと……、そのまま飲めばいいんですかね?)
やや諦めた風情の青年が、力なく少女の手元に顔を寄せる。
すると若干身を引かれ、怪訝そうに問われた。
「――何」
「いえ、飲ませてくださるのかなと」
「ばかなの? どうやって飲ませるの。いいからパレット寄越して。ほら、自分で持ちなよ先生。蓋は取ってある」
「あ、はい。すみません」
それもそうか――と、にっこり笑い、イデアは両手の商売道具と少女が捧げ持つ瓶とを取り替えた。
井戸から汲み上げたばかりの水は、ひんやりと心地よい。
口を付け、傾ける。ごくごくと嚥下する。
葡萄の酸味と甘やかな水分に、自覚なく渇ききっていた喉はおおいに癒された。
ぷは、と唇を離し、手の甲で拭うと、はたりと目が合う。水色の瞳が眼鏡の硝子とフレームのわずかな隙間から、流すように彼女を捉えた。
「……何か?」
「いや、何でも」
今度はロゼルが先に目を逸らした。少し機嫌が悪そうだが――ふと、その脇に白い封筒が挟まれているのを見つけてしまう。
「ロゼル様。それは?」
小首を傾げる絵の教師に、少年の装いの令嬢は「あぁ」と居直る。表情をほころばせ、事もなげに答えた。
「手紙だね。ノエル殿下から。まさか、本当にくださるとは思わなかった」




