19 観念する令嬢
「……本当に、着るのか。これを?」
私室にて。
いつもなら、整然と片付いているはずのソファースペースや寝台の上に、所狭しときらびやかな布地が横たわる。
焦げ茶の髪を珍しく括らず、垂らしたままのロゼルは苦々しく呻いた。聞き咎めた専任侍女が、きっぱりと言い放つ。
「着るんです、ロゼル様。お父上のご命令ですわ」
――お諦めになって、と。
どこか清々しい笑みを湛えつつ、侍女はじり、と主との距離を詰めた。
手には数々の化粧品。『まだ十歳なのに容赦ないな』と精一杯の反抗を見せるも、『この機を逃せば、今度はいつお手入れをさせていただけるか……わかったものではありませんわ』とのこと。
天を仰いだロゼルは大人びた表情で嘆息した。
「……わかった。するよ、女装」
「ご了承いただけて嬉しいですわ。さ、貴女がた! 取りかかって!!」
「! はいっ」
「ただちにっ!」
「やっとだわ……やっと、お嬢様の正装を見られるんだわ!」
入り口で待機していたらしい、若手から中堅までの侍女らが三名、嬉々と顔を輝かせて入室した。
普段は絵の教師しか頻繁に立ち入らせず、画材の匂いの満ちるアトリエが。
「……まるで、年頃の令嬢の部屋だな」と毒づくと、寝巻きを脱がしにかかった専任侍女に真顔で一刀両断に処せられる。
「お嬢様。貴女は、立派な『年頃の令嬢』の雛ですわ。そろそろご自覚あそばして」
成人用ほどではないが、ドレス専用の下着はそれなりに――いわゆるビスチェだ。白い絹で仕立てられ、胸元にはアウターに響かぬ程度の可愛らしいリボン。腰から下はシンプルなフリルを幾枚も重ね、ボリュームを出している。
良かった。流石にコルセットは免れたか……とほっと息をつくと、めざとく若い侍女に見咎められた。
「お嬢様? これから選ぶドレスによってはお胸元も矯正しますからね?」
「本気?」
「本気ですとも。ご安心召されませ。我々は、母君ミシェル様のもとで美容と服飾について日々、みっちりと学んでおります。本日はお嬢様を最も魅力的な姫君に仕立ててみせますとも!」
うへぇ……と、顔をしかめたロゼルは話のさ中で別の侍女にソファーの空いている箇所へと座らされた。「失礼いたします」と断られ、手際よく蒸した布巾で上向けた顔を温められる。
(……絵、描きたい……)
どうやら今日は、彼女らに描かれる立場らしいと。
とうとう、少女は観念した。
* * *
事の発端は昨夜の、父の発言だった。
皇宮での定期報告を終え、久しぶりの姉達を除く一家の団らん。両親とロゼル、それに住み込みの家庭教師であるイデアを含めての晩餐はもはや日常だ。
ともすれば両親不在の日が多いキーラ家において、銀縁眼鏡のリース氏は末っ子ロゼルの家族代わりに等しい。
鴨のロースト、付け合わせのクレソン。好き嫌いなく前菜から平らげて行く若君の装いのロゼルに、父イヴァンは機嫌よさげに話しかけた。
『いやぁ、今日もマルセル陛下と歓談中に話題に登ったんだけどさ』
『はい?』
カチャ、と一旦ナイフとフォークを置く。ナプキンでそれとなく口許を清めた。
あら、と意味ありげな視線が奥方のミシェルから当主の男性へと注がれる。
――何かあるな、と本能的にロゼルは身構えた。
『私は明朝早くに発たなきゃいけないから付き添えないんだけど。明日の夜は、第一皇子殿下の留学決定記念でね。未成年も参加できる晩餐会があるんだよ、皇宮で』
『へぇ』
なるほど、同年代の貴族の子息らの顔を覚えるにはちょうどいいか……と、ロゼルは気安く相槌を打った。再びフォークに手を伸ばす。好物のパンプキンパイに取りかかった。
さく、と切り分けるとまだ中身がほくほくとしている。少し大きめの一切れを口に入れると、数種の野菜や鶏挽き肉が一緒に詰められ、一度で何粒も美味しい。やさしい塩と香辛料で、飽きの来ない味わいだった。
内心の幸せをあまり表情に出さないロゼルだが、滲む雰囲気がとても和んでいる。それこそが我が家の晩餐の一番のごちそう―――とばかりに、イヴァンはにこにこと本題をぶっ込んだ。
『正式な場だからね。ちゃんとドレス着てね』
『……ッ』
『ごふっ!』
あやうく喉に好物を咀嚼途中で流し込みかけ、令息姿の少女は固まった。傍らではなぜか、イデアが咳き込んでいる。――大丈夫かこの人?
もぐもぐと、出来うる最速で安全にパイを嚥下したロゼルは、左隣の青年の顔を覗き込んだ。
『平気? 先生』
『あ、はい大丈夫。すみません』
なんとも言えない、温い視線を感じて顔を正面に向けると、物凄く楽しそうな母ミシェルと目が合った。
『私の出番ね』
『え。母上?』
……裏切るんですか? と言外に仄めかすと、実にやる気満々のまなざしが返ってきた。
まさか。
『男の子の格好も似合うし、大好きだけれど。とっても良い機会よね。是非、ここは張り切ってキーラ家第三息女として装いましょう。
わたくしは明日、午後から王妃様に呼ばれてるので残念ながら支度に立ち会えないの。――安心なさい。腹心の侍女達に任せていくわ』
『どうして複数がかりなんです。たかだか女物の衣服に袖を通すだけでしょう』
『!』
バンッ、と。
決して大きな音ではなかったが、突如豹変したミシェルがテーブルを平手で打った。
『お黙んなさいロゼル。その認識は間違っています』
『あ、はい。申し訳ありません』
しれっと、水を入れたグラスを片手に素直に謝るロゼル。母の導火線はことのほか短い。その琴線の触れる箇所はおおむね把握済みだ。
自身の迂闊さを迅速に詫びる愛娘に、ミシェルは眼光を和らげた。
『わかればよろしい』
瞳を伏せた奥方に、怒りの波が収まったことを察知したイヴァンは、何食わぬ顔で斜め向かいの青年に語りかけた。
『じゃ、リース君。私の代理で付き添い頼むよ。…………ほんと、頼むね?』
『――はい?』
素で訊き返すイデアの声が、妙に印象的だった。




