1 愛でる、ということ
その天使は、わずか一時間後にキーラ邸を訪れた。顔パスも良いところ。すぐにロゼルの私室へと通される。
侍女に案内された隣家の令嬢――八歳のエウルナリアは、招待主の少女を認めると、ぱぁ……っと花が咲いたような笑顔を浮かべ、ちいさな淑女そのままの礼をとった。
「こんにちは、ロゼル。お招きありがとう」
対するロゼルもまた、淑女の礼で応える。
「ようこそエルゥ。こちらこそ来ていただいてありがとう。何だか無性に会いたくて……つい、呼びつけてしまった。許して?」
小首を傾げて非礼を詫びると、エウルナリアは青く澄んだ瞳をぱち、と一度瞬かせた。
優美な形の眉が、切り揃えられた前髪の向こうで虹のような弧を描く。
愛らしい頬。瑞々しい珊瑚の唇。もちもちとした白い肌。……とにかく、どこもかしこも愛らしい。
隣のバード家は音楽の名家。
我がキーラ家は絵画の名家。
ともに、芸術の都と名高いレガートの双璧を担うべき由緒正しい伯爵家だ。
ちなみに現在、この国に侯爵家と公爵家は存在しない。ゆえに事実上の最高爵位となる。
が、ロゼルが彼女を好きな理由はそれだけではない。眼福であること。それもまた大きな理由の一つではあるが……
「ふっ……ふふふっ!! ロゼルったら! あいかわらず楽しい方ね。許すも何も。だいすきよ。私もお会いしたかったわ」
きらきらと。
窓辺の光を一身に集めたかと錯覚するほどの微笑みと“声”だった。
例えるならば、あまく震える銀の鈴。
ささやかな鈴蘭のように小さなそれが空気を伝い、耳に届くことの多幸感は先ごろまでの不機嫌を覆して余りある。
大切で、大好きな少女。
今日も先に言われてしまったロゼルは、にっこりと笑う。それは、胸底で燻っていた苛立ちを一時でも忘れられた証。
焦げ茶の巻き毛をふわりと靡かせたロゼルは、親友の手を取り、そっとソファーへと案内した。
* * *
まだ幼い二人に、ソファーセットそのものは少し大きい。そのため、二人は対面ではなくいつもの定位置――横長の、大人ならば二人掛けのソファーで横並びに座る。
キーラ邸の侍女は、まだあどけなさを残す二人の令嬢のために、コトリ、とそれぞれの紅茶と焼き菓子の皿を置く。
「ではお嬢様がた。ごゆっくり」
どことなく微笑ましさを湛えた表情で、作法どおり、しずしずと退室した。
折しも時刻は午後三時。
うららかな春の陽射しが心地よく室内を彩り、ひらいた窓からはレースのカーテンを揺らす程度に微風が流れ入る。
穏やかな、やさしい時間――
エウルナリアは湯気のたつ紅茶のカップを、おそるおそる小さな両手で持った。そのまま口許に運び、「あちっ」と小さく呟いている。
飲めずにがっかりしたのか、体全体でしょんぼりしてしまった。眉尻も下がっている。
毎度の光景に、ロゼルはにこにこと笑んだ。茶器が熱いのはわかっている。ゆえにまだ手を付けない。両手はお行儀よく、若草色のワンピースの膝の上に揃えたままだ。
猫舌の令嬢はとても残念そうに熱々の茶器を受け皿に戻した。
こほん、と咳払いをしたあと、何ごともなかったかのように口をひらく。
「で? 今日はどうなさったの。また、いらいらしちゃった?」
「そう。最近、絵を描いてもつまらない。教師どもはこぞって私を褒めるだけだし」
「それも難儀ねぇ。私、まだ家庭教師は付けられてないわ。でも……褒められるだけだとつまらないってことも、よくわかるわ」
「エルゥって、怒られなさそうだもんね」
「そう? わかる?」
「うん」
――何と言うか。人間は、あまりに愛らしくうつくしい生き物を前にすると、諸々の思考を放棄する傾向にある。
つまり、とりあえずは全力で愛でたくなる――と、ロゼルは真剣に考えている。
真顔で頷きながら、隣で柔らかな空気をまとう少女の頭をよしよしと撫でた。
つややかに光を弾く、ゆるく波打つ黒髪は背の中ほど。気持ち良さそうに細められた瞳は、湧き水豊かなるレガート湖の深い青。ちいさな顔に妙なる配置の、幼いながら既に見え隠れする妖精じみた美貌。
思わず見とれたロゼルの唇から、ぽろっと本音が溢れた。
「描きたいな……」
「描いていいよ?」
即答。
しかし、ロゼルは深緑の目を伏せ、ゆるゆると頭を振る。
「だめ。今の私の実力じゃ、まだ描けない。エルゥのうつくしさに失礼だ」
「そんなことないわ。失礼もなにも、気にすることか、全然ないのに」
無心にきょとん、とした顔。これもまた可愛い。
大人顔負けの審美眼の持ち主である、ちいさな画家の少女は考える。
(はやく、もっと思うままに描けるようになりたい。こんなに“描きたい”と思えるものが、もう、側にあるのに)
いまだ幼い身の裡を灼く焦燥。ジレンマ。
――どうやら、これも彼女を苛むものの一端らしい。