18 僕は、危険人物なのでは?
「『外す』……つまり、家庭教師を辞めたいってこと? リース君」
「えぇ。まぁ……」
飄々と、快活に尋ねるイヴァン。
答えるイデアの声音は重い。
コツ、コツと磨きあげられた廊下に二人分の靴音が規則正しく響く。
――レガート皇国の、雅やかな尖塔を連ねた皇宮。
大陸東部で産出する質のよい大理石を豊潤な軍事力と財力をもって運びいれ、機能的な美意識をもとに建てられた城は今日も輝いている。皇国が、過去一時でも大陸の覇者たる帝国だった時代の、数少ない名残だ。
キーラ画伯イヴァンは定期的に各国の視察内容を皇王に報告している。
蔦を絡ませた意匠の浮き彫りが施された白い柱の林立する広い通路には、ところどころに大ぶりな雪花石膏の壺に花が活けられ、訪れた者の心を華やがせる。
レガートの二大貴族の片翼を担うイヴァンを阻むものなどいない。すれ違う人びと――身なりのすっきりとした侍女や侍従、政府高官に騎士らはみな会釈とともに通路の脇に逸れ、あたたかな眼差しとともに二人に道を譲った。
その都度、イヴァンとイデアは軽い目礼でこれに応えている。
自分の肩書きは“キーラ画伯家住み込みの家庭教師”でしかないはずなのだが――……どうも、当主に抜擢された期待の片腕候補と見なされているらしい。
ゆえに、打算的な女性に群がられるのだが。
実際は、そんなことは決してない。
この人の気まぐれで学院を卒業後すぐに捕まり、供として各国を廻るようになってそろそろ一年が経つ。
滞在先では王候貴族を相手に肖像画を描くイヴァンの手伝いをこなし、時に彼でもさばききれぬ数を代理として描くこと数十件。我ながら使い勝手のいい助手だ。
業務で困ることは特にない。目の前の“求められるもの”を描く。ただそれだけで事足りる。
だが――
ほんの少しの間を空け、申し訳なさそうに青年は呟いた。落ち着いた声音が柔らかく、闊歩する二人の後ろにこぼれ落ちる。
「ロゼル様は、十歳とは思えぬほど利発で聡明な方です。僕からお教えできることはもう、殆どありません」
「――……本当にそう? あの子自身が、きみとの関係を今後も望んだとしても?」
「え」
どきり、と。
妙な問いに心臓が跳ねた。
斜め前方を進んでいた背中がぴたりと止まり、あやうく追い越しそうになる。
寸でのところで踏み止まり、上体を傾げた青年はそろそろと上司の顔へと視線を流した。
イヴァンは基本、にこやかな笑顔を絶やさないが若干背が高く、恰幅もいい。
――つまり、今は小揺るぎもしない存在感で青年を睥睨しつつ腕を組み、通路を右に折れる手前で悠々と佇んでいる。
微笑んでいるようで笑んでいない。
人を食った彼の表情は一種独特で、真意を大層読み取りづらいものとさせていた。
――が、突っ込んだ会話を促されているな……と感じたイデアは重々しく口をひらく。
「『望む』とは? 僕をまだご要り用だと、ロゼル様ご自身が仰ったのでしょうか」
動じず返される問い掛けに、気配を和らげたイヴァンは、フッと口角を上げる。
それは、ほぼ苦笑に見えた。
「いや、聞いていない。でも流石にわかるよ。いろいろと規格外だけど、大事なうちの末っ子だし。……きみ、あの子の部屋に自由に出入りしてるそうじゃないか」
「! それは―――部屋に、手遊びでも僕の制作中の絵があれば勉強になるからと、あの方が」
「ほう」
「えぇと……結果、いつでも作業を進められるよう不在時でも入室できる許可を与えてくださっただけで……あの、イヴァン様?」
「ほうほうほう。……ん、何。リース君?」
イヴァンは一人、うんうんと頷いている。
イデアは数度瞬き、―――ハッ! と刮目した。
(だめだこの人。何か、はげしく勘違いしてる)
言い様のない防衛本能に駆られて状況を読み取った部下は、出来るだけ切々と上司に訴えかけた。
「あの。……ロゼル様は、伯爵位を継ぐべき方ですよね? それだけの才をお持ちです。僕のような、十も年上の平民上がりが周りをうろついてちゃ駄目だと思うんです。内々にでも、ご婚約者の若君はいらっしゃらないんですか? 絶対、面白くは思われませんよ」
「内々……う~ん、いないなぁ……ほらあの子、気性と好き嫌いがおっそろしく激しいから。口では『父上が見込んだ方ならどなたとでも』とかなんとか、嘯いてたけど。あの形だろ? そういう自覚がないんだよなー。まぁ、そこが可愛いんだけど」
「え? あぁ、……はい?」
突如始まった娘自慢に戸惑う若い部下に、この国の屋台骨をいくらか担う壮年の男は、ぽん、と肩を叩いて微笑んでみせた。
ちら、と眼鏡越しの水色の瞳を覗き込み、沈黙すること数秒。「――ま、いいや。行こう」と視線を外し、再び歩き出す。
曲がり角を折れた先。皇王執務室まではもう少し。イデアはぴりり、と別種の緊張に襲われた。
まざまざと思い返すのは、おだやかな威容を放つ白銀髪の皇王マルセル。
名君と名高い彼はイヴァンよりもなお若い。まだ三十路半ばだ。
柔和な物腰であまねく民から慕われる好人物だが、いざ相対してみると、どことなく底知れない。正直、イデアは国主との対面を不得手としている。
なぜ、自分まで同席させられるのか。本当によくわからない。
(僕に振られるのは、大抵イヴァン様の現地での弾けっぷりやら他愛のない世間話だから、苦ではない……はずなんだけど)
青のグラデーションで飾られた、皇宮のステンドグラス。
色付けられた陽射しに目を細めつつ、イデアはこっそりと嘆息した。
――――言えない。言えるわけがない。
あなたのお嬢さんの寝顔を同じ寝台で見おろし、不覚にも時を忘れたなどと。
言えるはずもなかった。
 




