17 無自覚の罠
(起こして、と言われてもな……)
イデアは途方に暮れた。かなり緩い関係性ではあるが、彼女は歴とした伯爵令嬢で、自分はその教師で若い男。こう見えて、女性と付き合ったこともなくはない。――大抵、短期間で愛想を尽かされてしまうが。
最後に付き合った女性からも『ほんと、がっかり。もっと出世すると思ったのに』と言い捨てられて、はや数ヵ月。
絵のモデルがなし崩しに――というパターンが一番多い。そう考えると、自分から誰かを熱烈に求めたことはなかった。
その回想に引っ掛かるように、わずかな痛みとともに、ある女性の言葉が浮上する。
『……リース君はさ、ちっとも執着してくれないよね。わたしは……、もう無理。ごめん』
――と。
卒業制作の森の乙女は、唯一自分から告白した彼女をモデルにした。透き通った神秘的な翠眼の女性で、学院の臨時講師。同じ平民だった。
たぶん、自分なりには彼女を一番想っていたつもりだっただけに、別れには打ちのめされた。……卒業式の前夜だったが。
(だめだ。今思い出すことじゃない)
軽く頭を振り、つとめて気分を変える。
後ろ暗いことはない、と言い聞かせるように、眠るロゼルの頬にかかる巻き毛をとり、邪魔にならぬよう流した。
(……ん?)
ふと、その細いうなじに気をとられる。
今日のリボンは芥子色。おそらくタイピンの黄水晶と合わせているのだろう。
寝返りを打ったら、これ、邪魔なのでは? ……と、他意なく思った。うつ伏せでタイピンもよくなさそうだな、と。
あとから思うに。
これが、決定的な罠だったなと噛みしめる。
――……が、このときは本当に無心だったのだ。
「えぇと。失礼しますね、ロゼル様」
起こすわけにもいかないが、断らないわけにもいかない。
イデアは少女におそるおそる声を掛け、まずはこちらを向いている胸元のピンに手を伸ばす。
銀の煌めきを甘やかに弾き、シンプルな造りのそれは難なく外れた。そのまま枕の右側に置く。シャツの襟はハイネックだったので、一つだけ釦を外した。その間、すぅすぅと健やかな寝息のみ漏れ聞こえる。実に気持ち良さそうだった。
つい苦笑をこぼす。
(ここまで警戒心がないのもな……)と、改めてリボンに指を掛けた。その、次の瞬間。
「ん……ぅ」
「あ」
するり、とサテンのリボンは呆気なくほどけた。それはいい。しかし、ちょうど寝返りを打ったロゼルが真上を向き、イデアの左手を抱き枕よろしくみずからの頬に当てて抱え込み、反対側を向いてしまった。
(~~ロ、ゼ、ル、様っ……!! だめです。これは駄目なやつ!!!)
抱え込まれた左腕はまるごと彼女の体の下。指先にリボンを挟んだままの手のひらは、うまい具合に温かな顎と鎖骨の隙間に収まってしまっている。
――……腕枕で、抱き枕……
しかも、イデア自身の体も寝台中央へと引っ張られた。由々しいことに、傍目には彼女を背から抱き込んでいるように見えなくもない。
幸い通路に人の気配はなく、そのことに辛うじて安堵を覚えた青年は、なるべく寝台を軋ませぬよう、そぅっ……と体を起こした。
右肘を基軸に、申し訳ないが一旦、眠る彼女に覆い被さるような形で左腕を引き抜く。
なぜか一瞬、ひどく不服そうな表情をされてしまった。
(そんなに抱き心地、良かったんですか……)
軽く絶望感を覚えて、くらくらと天井を仰ぎ見たあと、再度教え子の状態を確認する。
白い敷布に波打つ、つやのある焦げ茶の巻き毛。気の強そうな唇。閉じられた瞼を飾る睫毛は愛らしい少女そのもの。勝ち気で意思のつよい、凛とした眉も今は気品を感じさせつつ無防備で――――あたたかく、伸びやかな手足を投げだし、柔らかな肢体を横たえている。
「……!」
と、そこで唐突に我に戻った。
(やばい。やばいやばいやばい。もの凄く、危ない!!)
何か、大変なものを見つけてしまった気がした。彼女がいくら少年の形をしていても、自分にはいつも少女に見えていたわけだが…………
「まずい、だろ。……主家の令嬢で、おそらく……次期当主なのに」
左手に芥子色のリボン。右手で乱暴に、みずからの灰茶色の髪をかきあげながら。
大仰なため息をついたイデアが、それでも律儀に教え子の靴を脱がせ、寝台横にずるずると座り込んでしまったのは、暫くあとのことだった。
 




