16 猫の午睡
月日は流れ――とある春の日。
少女は、つかつかつか、とアトリエを兼ねる自室に戻る。少々行儀は悪かったが、ばん! とスケッチブック一式をソファーセットのローテーブルに放り投げ、靴を履いたまま寝台に飛び込み、そのまま突っ伏した。
「うぅ……くそっ。最低の最悪だ」
「? おかえりなさい、ロゼル様。……大荒れですがどうしました」
カタン、と簡易椅子を鳴らし、既に勝手に入室して自身の絵の制作にかかっていたイデアは立ち上がった。
イーゼルに掛けられた画布には、ここではない何処かの景色。資料はない。頭のなかの、どこを覗けばこんな綺麗な風景が広がってるんだ……と、突っ込みたくなる衝動を抑えつつ、ロゼルは「ん」とだけ返す。
うつ伏せで、右手だけ動かし、人差し指でソファーの辺りを指さした。
――見ろ、ということか。
イデアは作業台を兼ねる小ぶりなワゴン車に木のパレットと筆を慎重に重ねて置くと、やれやれと苦笑をこぼした。
手に付着した絵の具を、さっと前掛けで拭う。これはこれで、前衛的なアートなのだろうか……と思わせる、さまざまな色のしみがそのままの前掛けに、今また新たな色――薄紫――が加わった。
足音はない。ふかふかの絨毯は消音性に優れている。
「失礼」
とだけ断り、かれは、あっさりと放り投げられた哀れなスケッチブックを拾い上げた。
そこには、一対のうるわしい少女と少年がラフなタッチで描かれている。細い木炭で描かれた線は普段に比べると荒いものの、捉えるべき線は見事に厳選されていた。
―――最少で最大の効果を。最近の彼女のモットーらしいな……と微笑みつつ。
ふぅん、と長閑な声を漏らし、イデアは淡々と所感を述べた。
「バード家のご令嬢……もう、お帰りになりましたか。相変わらず妖精のような方ですね。貴女の絵でしかお目にかかったことはありませんが」
「当然だ。生身のエルゥを先生に見せるわけがない。勿体ない。これ以上、あの子の信奉者を増やしてたまるもんか……!」
「……左様で」
ぎしり、と寝台が軋む。うつ伏せに転がった体が若干、右に傾いたが、ロゼルは特に咎めることもなく青年の次の言葉を待った。
「で? こちらの少年は……その、新たな信奉者で?」
「そう。レインって奴。エルゥの専任従者になったからって、今日、挨拶に来たんだけど。
無理。見てらんない。あれ、どう見てもべた惚れじゃないか……!」
「まぁまぁ。うん、良く描けてますよ。この二人のそこはかとない調和というか、関係性の初々しさまで。見ているこちらが気恥ずかしくなるほど直接的に伝わってくる。上達しましたねぇ」
「! それは……どうも」
ややあって、そっぽを向いていた顔がこちらを向いた。羽枕と焦げ茶の後れ毛の隙間から、ちらりと深緑の瞳が覗く。それを微笑ましく思ったイデアは、にこっと水色のまなざしを和らげた。
よしよし、と後頭部を撫でると眉間にしわを寄せたまま大人しく目を閉じる。
それが、とても偉そうで。
(猫みたいだな……しかも、とびきり好みがはっきりしてて気位が高い、気難しいやつ)
―――例えとしてはあながち間違いじゃないな、と。
青年は改めて表情を寛げた。
* * *
あれから二年。
ふて腐れ、寝台に沈む中性的な体つきの少女――ロゼルは、変わらず少年の装いを通している。
御年十歳。自分は二十歳になった。
最初はいいように翻弄されていたが、近頃はそうでもない。
徐々に、ふらりとキーラ邸に戻る当主イヴァンに引っ張り出され、助手として近隣の国々を廻るようになったし、何より彼女自身の成長も著しい。
元から素養があったこともあり、技術的なこと、心得のようなものは既に伝授し終えている。
あとは、今日のように時間があればどちらかの部屋でともに絵を描く仲間のような存在となっていた。
――……描けばつい、指導めいた会話になってしまうのだが。
四の月の昼下がり。ほのぼのと射し入る窓からの光は暖かい。
ちょうど良い柔らかさの寝台に腰かけ、気難しいが自分には懐いているらしい猫をひたすら撫でていると、つい眠気を覚えてしまう。
けっこう真面目に噛み殺した欠伸の気配はしかし、聡い教え子に伝わっていた。
「ね、先生。眠いの? ……そっか。昨夜オルトリハスから戻ったとこだもんね。寝てていいよ。こっち来る?」
ぽふぽふ、と叩かれたのは彼女の隣。
(…………)
いや。流石にだめだろう。
銀縁眼鏡の教師は、提案について注意すべきか否か、ほんの少しだけ躊躇した。結果、ざわつく胸を無視して、何とかほほ笑んでみせる。
「いえ……お気持ちだけで。ありがとうございますロゼル様」
「……そう? まぁ、いいけど……ごめ、私はちょっと寝る」
「え」
すぅ……っと、深い森の色の瞳が閉じられる。
『あとで起こして』の、声になるかならないかの絶妙な呟きを残し、健やかな少女は忽ち、すやすやと寝入ってしまった。
 




