15 宣言と成長
キーラ邸のよく手入れされた庭で、ただこの一画だけは天然の枝振りだ。雰囲気が表の庭と異なるため、裏庭というべきか。やや奥まった場所にあるここは、家族や親しい者のみが歓談などに使用している。
あえて天蓋となるよう伸び交わされた枝。その数本の常緑樹を背後に、四阿はあった。
開放的な造りで、蔦に絡まれた四本の柱が彫刻の施された屋根を支えている。壁はない。
繁る蔦の葉。それらがそよそよ……と風に靡く。まだ露を含む水色や青紫の朝顔も、同様に揺れていた。
カチャ、と硝子の器が受け皿に合わさる音。
カラン、と氷の融ける音。漂うベルガモットの香り。焼きたての小さなスコーンには、生クリームとブルーベリーの実が添えられている。
つややかで滑らかな光沢を放つ、上質な綿の白いテーブルクロス。その上に広げられているのは上記のアイスティーとそのお伴―――だけではなく、むしろ主役は別にあった。
ロゼルは円卓の手前に腰掛け、いつも通りのスケッチブックと太さの異なる木炭のチョークを。
セピアは鼻唄混じりに色糸と針を選別し、刺繍セットを構え。
ベリルはロゼル同様スケッチブックを。しかし、水彩絵具一式を並べて。
どん、とそれぞれの眼前に広げている。
よって、本来の主役達はテーブル中央で飾りと化していた。
……が、この姉妹はこれで普通だ。下手をすると飲まず食わずでも一向に構わない。飾られた硝子の器の結露した滴や、紅茶と光の屈折を写し取りたいからと、結局本当に手も触れず茶席を終えたこともある。
今回もそうなるかと危ぶまれたが――意外にもロゼルが飲み物を手に取った。優雅に一口含み、そっと受け皿へ。「姉上がたも。どうぞ」と勧める。
へぇ……と軽く目をみひらき、見つめるベリル。その口許には、面白がるような笑みが浮かんでいた。
「ロゼ、それで本当のところ、リース氏はどこに?」
「……うん? そんなに気になりますか。
先生は、ご実家が観光街で土産物屋を営んでるらしくて。今はかきいれ時で忙しいからと帰省なさいました。
『――休暇なのに休暇じゃないのは、毎年のことなので』……と、どこか遠い目で笑ってましたよ」
「ふうん」
カコン、と薄い水色を含ませた平筆を水入れに放り込む。乾かぬうちに、次は少し青。それを写し取った空の随意の場所へと滲ませる。
――わざと空けた空白は、雲なのだろう。案の定、ベリルは丸筆に白をなじませ、薄く引いたあと若干の灰色をとり、ぼんやりと影を塗った。
手早い。流石だなと息を吐く。
「ベリル姉上は本当に……風景画がお好きですね。相変わらず、人間よりもお好きですか?」
まさに結晶の柱石のごとき緑の瞳。それを、ひたと画に向けたまま長姉の女性は答えた。筆を動かす手は止まらない。遠景を描き終え、次は机上へと視点を定める。このまま静物画に移行するのか。
「好きだね。もの言わぬ、うつろう自然の風景がいちばん好きだ。ごてごてと飾りたてた各地のご贔屓様には申し訳ないけど」
「あぁ……仕方ないですよね。キーラ家のつとめですし。父の助手だけではない? もう、姉上自身へと依頼が来ているのですか?」
「うん。まだ数は少ないけど。一度しか行ってないが砂漠の王女殿下からはひどく気に入られてしまった。滞在中は、父そっちのけでずっと私を側に置かれてたよ」
「へぇ。肖像画?」
カララン……と、氷が涼やかな音を奏でる。
流し見ると、ベリルを挟んだ向こう側で美味しそうに器に唇をつける次姉セピアの姿があった。
「そう」と手短に答える長姉。ロゼルも人のことは言えないが、とんだ集中型だ。
セピアはふわぁっ……と、花が綻ぶように微笑んだ。しかし視線は悪戯っぽい。
彼女にはどことなく、母に似た華やかさと父に似た茶目っ気があった。
「ま、ね。わたしも描けと言われれば何でも描けるけど。一番好きなのは刺繍ね。パッチワークも好き。とにかく針と糸よ! 触ってるだけで浮き浮きしちゃう」
「セピア、それ病気」
「ふふっ! ひどいわ姉様。人間嫌いの偏屈姉様になんか、言われたくないわ」
「あ~……まぁまぁまぁ。落ち着いて姉上がた。キーラ家の者は代々、何かしら好みが偏ってるんだと母上が言ってました。血筋だから、これはもう仕方ないんです」
「ん? じゃあ貴女は? その年齢で淡々と何でもかんでもやってのけた貴女にも、とうとう“春”が来ちゃったの?」
「春じゃないセピア。夏だ」
「ああんもう、混ぜっ返さないで! ものの喩えよ、わかってるくせに――……で? どうなのロゼ?」
わくわくわく、と蜂蜜色にも似た輝きの双眸が、真っ直ぐに自分へと向けられる。
(セピア姉上も、エルゥとは異なる愛らしさを備えておいでだよな……)など、やくたいもないことを考えつつ、ロゼルはほろ苦く笑んだ。
八歳とは思えぬ、それは、深い表情だった。
瞬間、見とがめた姉達はどきりと手を止める。
固唾を飲んで二人が見守るなか、少年のような爽やかさで三女のロゼルは溢した。
紅茶を、ではない。
本心を―――言葉にのせて、訥々と。
「まだ……上手くは言えませんし、届きそうにありませんが。描きたいものがあります。私の手で、紙や画布に写し取りたいものが。
たまたま、それが“人間”なので……今は人物画をとにかく極めたいと。そう思っています」
目を瞑る。
眼裡にはいつも、あの森の絵を。乙女の静謐さを甦らせることができる。
あぁで、ありたい。
みずからの絵と向き合うときは、いつもあれを生み出すに至った、あの静かな眼差しとともにありたい。
いつの間にか、ロゼルの胸には絵に没頭したときの師が見せる、つめたささえ感じさせる水色の瞳が浮かんでいた。
その、一見おだやかな、ぴんと張り詰めた表情も。
頬が紅潮する。抑えきれない憧れや渇望。
届いていないからこそわかる、はっきりとした距離。その分だけひたひたと、燃え立つものがある。
「描きたい対象と……越えたい存在が出来ました。なので、今度父上に会ったら伝えてください。――ロゼルは、偏った人間描きになりそうだ、と」
にこりと唇を上げる。年相応の無邪気な、はにかんだ笑み。
少女は、描き終えたスケッチブックをそっと机上に。二人に向けて置いた。
「「……!」」
ベリルとセピアは驚きに目をみはった。
――――それは、今は不在のはずの両親を中心に、やれやれと呆れたように微笑みあう、まさに、そのままの自分達だった。




