14 噂の火消しと三姉妹※
「ね、聞いた?」
「え。何が?」
「実はね――」
……と。近頃のキーラ邸はかしましい。表面上は穏やかなものだが、一歩使用人らの勤労スペースに立ち入ろうものなら、それは凄まじい噂の嵐だった。
曰く。
ロゼルお嬢様が家庭教師のリース氏を襲っていたとか。
いや、先に手を出したのはリース氏に違いないとか。
待て待て、お嬢様はあいつに泣かされてたぞとか。
ちょ、待てそれ本気でやばいやつ……!! 等々。枚挙に暇がない。
そんな、好奇と非難の渦を断ち切ったのはその年の夏、久々に帰邸したロゼルの姉達だった。
『……いつから、ここは暇人の巣窟になったの?』
すぅっと細めた迫力満点な瞳は、澄みきった緑の瞳。父と同じく焦げ茶の巻き毛を右肩の前で緩く編み、一本で垂らしている。
すらりと背の高い彼女の名はベリル。十九歳だ。
『なるほど総入れ替えか。名案ね、都中に求人をかけましょう』
にっこりと微笑む次女は十六歳。一昨年からレガティア芸術学院の寮に入り、いっこうに邸に寄りつかない。
帰省は夏期休暇と年越しの年に二度のみと、実のところ諸外国を巡る長女以上に邸での滞在日数は少ない。
母より少し暗めの榛色の髪と瞳。おおむねミシェル似だが、目許はほんのり父譲り。名をセピアという。
―――使用人らは戦慄した。
かくして、キーラ邸には粛々たる平穏が戻った。
* * *
「助かったよ姉上方。私は、あの手の噂話はつい放っておいてしまうから」
「まったく……母上は何をしておいでなの。かわいいロゼ、顔を見せて? すごく久しぶりね。背が伸びてるわ」
くい、と遠慮なくちいさな頤に手をかけ、妹の顔を上向かせるセピア。
喜びに上気した頬、陶器のような肌。夢見るような淡い色彩の彼女は、腕の良い人形職人が手がけたビスクドールのような雰囲気を漂わせる。
――口をひらくと、その苛烈さもまた母譲りと評判ではあるが。
くすくす、と笑ってロゼルは答えた。
「母上は、ここのところずっと劇場と皇宮を往復してる。なんでも皇妃様と共同で新しい歌劇を作られるのだとか。
脚本、衣装、美術に音響……とにかく忙しいらしくて」
「母上らしいわね」
「……で? 件の教師はどこ。火のないところに、と言うし。一言釘を刺したいんだが」
コツ、と踵を鳴らし二人に近寄ったのは長姉のベリル。年齢のわりに落ち着いた物腰は、彼女をいかにもこの家の総領娘に見せたが――
幼いロゼルは、さらに年齢不相応の泰然さに苦笑を添えて物申した。
「ベリル姉上。火も何も……かれは、十八のいい大人ですよ。私はこんな格好だし、まだ子どもだ。煙など立つわけがない」
さらり、と言ってのける仕草はすでに匂いやかな清艶ささえまとっている。
斜に構えた、幼いながらも玲瓏たる美少年の風格と言うべきか―――
ベリルとセピアは、ちら、と互いに顔を見合わせた。声には出さなかったが両者とも同じ、困惑の色をその表情に滲ませている。
曰く、何とも言いがたい、末の妹の決定的な変化。
「「…………」」
たっぷりとした間を空けたあと、セピアはおそるおそる“それ”を口にした。実に、彼女らしからぬ物言いだった。
「あの、ね……ロゼ。とっても言いにくいんだけど。貴女、男の子の格好が似合いすぎてるわ。下手な美少女顔負けっていうか……間違いの一つや二つ、起こってもおかしくない感じなのよ。相手が大人だからこそ」
うん、うんと傍らで深く頷くベリルも同様のまなざしだった。
きょとん、と深緑の瞳を瞬くロゼル。これもまた罪のない瑞々しさで、見るものを惹き付ける。
―――どうしたら、わかってくれるのか。流石に二人の姉が困り果てたとき。「……っふ……!」と、息の漏れる音が聞こえた。
「あっ……ははは! はは……っ、傑作ですよセピア姉上? ない。ないですから!」
伸びやかな若木のような身体を二つに折り、苦しげにひぃひぃと息をつくロゼル。
二人の姉は、目を丸くした。
というか……記憶にあるより、ひどく伸び伸びと明るくなっている。少しばかり気難しい猫のようだった妹が。
それをもたらしたのが、果たしてかれなのか。それとも彼女自身の成長によるものなのか……
ふっ、と。
わかりかねる中にも喜ばしい空気を感じ、ベリルは頬を緩めた。
「ま、いい。最近は何を描いてる? リース氏がいないなら、それはそれでいい。姉妹水入らずで過ごそうじゃないの」
笑いを収めたロゼルは、目じりにうっすらと涙を溜めて顔を上げた。それを、指ではらりと払う。とても晴れやかな表情で。
「えぇ。私も久しぶりに姉上方の絵が見たい。……どこがいいかな。四阿に行きます? 冷たいお茶を用意させましょう。いい天気だ」
からり、と晴れた空。午前のまだ涼気を含む空気。レガート湖を渡る風は心地よく、今まさにレガティアは年に一度の最たる観光シーズン。街はごった返しているし、現地人はみずからの家屋敷で寛ぐに限る。
にこやかな末の妹の屈託のない笑顔に。
年の離れた姉二人はつられたように、それぞれの瞳を優しくすがめた。




