13 茶会のあとで(後)
イデアが左手にとって眺めているのは今日の親友、一枚目。
ケーキを頬張った瞬間があまりにも幸せそうだったので、嫌がる本人を差し置いて描いたラフスケッチだ。
まず、線が荒い。勢いで仕上げた自覚はある。常ならば最少の線を心がけ、対象を媒体に“とじ込める”のに。この時ばかりは無我夢中だった。
実は、どう描いたのかもよく覚えていない。気づくと、いつの間にか視線を落とし、唇を噛んでいた。
「……意外です」
まだだ。
まだ、全然足りてない。
所詮は見たままを描いているに過ぎない、とロゼルは思っている。
なので、高い位置から溢された品評が殊の外優しかったことに、次いで驚いた。不覚にも胸底がくすぐったい。
(……? いや、ない。照れてなんかない。この男からは褒められ慣れてないだけだ)
ロゼルはぷるぷるっ! と頭を振り、つとめて平淡に続けた。
「リース先生は、私の絵が嫌いなんだと思ってた」
「ほう?」
銀縁眼鏡の上で灰茶色の眉が、ぴくりと動く。
イデアは「べつに」と述べつつ、ブリッジを指の先で直した。チャ、と僅かな音がする。
――……かれの、下を覗き込むときの癖なのかもしれない。よく見る仕草だ。
レンズ越しに、眉と同色の直線的な睫毛が優雅に瞬く。それに、思わず目を奪われる。
「甘えた、内向きの絵が嫌いなだけで。真摯に対象と向かい合っている絵は好きですよ。貴女が《彼女》をとても愛しく、大事に想っていることが伝わる。いい絵だと思います」
「へぇ……」
「そんなに意外ですか? 僕が貴女を褒めるのは」
「すこぶる意外。先生は優しそうなときが一番油断ならない。いつ鼻っ柱をへし折りに来るかわからないし、正直、かなり動揺した」
「それは……大変、申し訳ありま……せん?」
微妙な謝罪をしながら、遠回しに優しさが不気味と評されてしまった青年は情けない顔をした。若干、不服そうに口の端を下げている。
「まぁいいや。先生、ちょっと」
「はい?」
上向けた手のひらの指で、こいこい、と招く。十も年上の青年は、何ら違和感を示すことなく素直に近づいた。
『内緒話かな?』と傾けた上半身はほぼ九十度。うまい具合にさらりと髪が流れ、ロゼルの目前に無防備な耳が晒された。絶好の好機だ。
(ばっちりだな。でも、先に断っておくか……)
あまり意味はなかったが、筒上にした両手をかれの耳に当てた。こそこそと、まずはスケッチに関する報告をする。
「あのさ、エルゥの顔まわりも、今日はいっぱい触らせてもらったんだけど」
「――え。触ったんですか」
愕然とした声音は無視し、少女は一つ頷いた。
「うん。めちゃくちゃ嫌がられたけど嫌われてないから大丈夫。ときに先生は、他人に首とか触れられると駄目なひと?」
「?? いや、どうでしょう。仰る意味がわからないんですが……」
心底困ったように眉をひそめている。どうやら本当にわからないらしい。
ロゼルは深い色合いの瞳を細め、少しだけ身を引いた。怪訝そうなイデアにぴたり、と視線を合わせ――ふっとほほえんで見せる。いっそ、とびきりつややかに。優しげに映るほど。
「!」
青年の、ほやほやと弛んだ頬からほろ酔いの柔さが霧散した。
みひらかれた水色の瞳。はっきりとした警戒心がゆるゆると戻る。
「……あの、ロゼ……まさか?」
「こら。だれが勝手に愛称を呼べと……じゃなくて。喉仏、気になるから触っていい?
あと耳。これも個人差あるよね。前、もっとじっくり見とけば良かった」
可愛らしく小首を傾げつつ、すでに触れそうな場所まで小さな指が迫る。
イデアは刮目し、激しく狼狽した。
「だめです……!」
「なんで。弱いの?」
「強いとか弱いの問題ではありません!! 倫理的に、おかしいんです!」
「倫理……?」
ロゼルは怪訝そうな顔をした。
が、『あぁ!』と合点がいったように瞳の色を閃かせる。
長大な嘆息をこぼし、フッと見下すように青年を見上げた。
「ばかだな。私はまだ八歳だ。そういうのは年頃の女性を相手にしてくれ。恋人は……あ、すまない。いなさそうだな」
「ちがっ……!! 違うんですロゼル様。……いや、でも違わない? あああのっ、ちょっと待って。お願いですから、ね? 落ちついて……うわぁっ!」
「もう。ガタガタうるさいなぁ、さっさと諦め……」
―――コン、コン。
はたり、と師弟は互いの手首や衣服を掴み、揉み合う姿勢で固まった。
閉じたままの扉の向こう。侍女が遠慮がちに声を掛けてくる。
「あのぅ……申し訳ありませんお嬢様、リース様。夕食の準備が整いましたが……」
「ん? わかったありがとう。今行くよ」
ロゼルは何事もなかったように涼やかな声でに答える。「で、では。すぐにいらしてくださいね」と、職務に忠実な侍女は小走りで離れて行った。
控えめな靴音とともに遠ざかる気配。その間、なぜか沈黙を貫く二人。
ふぅ……と。
うなじで括った濃い焦げ茶の髪をくるくると指に絡め、ロゼルは毒づいた。
「まったく。大の大人がだらしない」
「!? 誰のせいだと思ってるんです……?」
イデアは瞬時に姿勢を正し、慌てて乱れた着衣を直す。
赤い頬。ただよう酒気。うっすらとまとう煙草の匂い―――確かに理は一見、男装の少女にあるかに見えた。
「私のせい、とでも?」
トントン、と机上に散らばった紙やスケッチブック、画材を整え、少女はけろりと訊ねる。
青年はがくりと項垂れ、力なく呟いた。
「……いいです。もう……」
二人の、いささか至近距離に過ぎる押し問答は良かったのか残念だったのか。
こうして、あくまで当人同士の間ではうやむやに流された。




