12 茶会のあとで(前)
「なるほど。こちらが貴女の大切な少女ですか」
「え?」
ロゼルは、手元には一切影響を及ばせない絶妙な力加減で眉を跳ね上げた。
驚いた。集中し過ぎていたらしい。
昼間のスケッチを元に、自室の書き物机で制作に励んでいると、背後から突然声をかけられた。
聞きなれた、穏やかな中低音。クセのない柔らかな男声――イデアだ。
後ろを仰ぎ見る。
頭上から降るように聞こえた声に相違はなく、すっきりとして滑らかな顎とゆるんだ襟元から覗く喉仏が、間近ではあるが随分と高い位置に見えた。
目がそんなに良くないからだろうか。両手を腰の後ろで組み、半身を斜め四十五度に傾けてまじまじと机上を眺めている。
絵を見られることはもはや普通なので、せっかくなのでロゼルも、かれを“対象物”としてじっくり観察した。
(子どもから見ると、やっぱりでかいよなぁ……威圧感はないけど)
大変良い機会だ。あとで喉仏や耳も触らせてもらおう、と軽いノリで少女は決心した。
ちなみに、茶会ではエウルナリアの顔や耳、首回りを存分に触らせてもらった。華奢な彼女は、同年代同性であってもどこか、存在の質が違う。
エウルナリアの肌は淡雪のように白く、びっくりするほど温かかった。信じられないくらい柔らかで繊細。すべすべで心地よい手触りだったと記憶する。
あと、たくさんのケーキを食べたあとに相応しく、とても甘い、幸せそうな匂いがした。
当の本人は困りきった表情で『え、なんで……? ……ふふっ! やだ、くすぐったーいっ!??』などと暴れ回っていたが聞き流し、目的を遂げた。満足だ。
しかし、周囲の大人のごく一部は、なぜか顔を赤らめていた。
ロゼルには理由がわからない。とても真剣だったのに。
視線を落とし、一頻り思案に暮れる。―――が、ハッ……! と何かに気づき、深緑の視線をすばやく師へと流した。切り込むように問いかける。
「リース先生、キーラ家の食客のくせにこっち来ていいの? 父やほかの客人はまだサロンでしょう。お付き合いは?」
書き物机が面する窓の外にちらりと目をやる。空の端は、じき茜色だ。
華やいだパーティー自体は既にお開きとなっているが、紳士方の殆どは一階のサロンに残っている。
イデアも途中まではそこにいたのだろう。嗅ぎ慣れない紫煙や酒精の移り香が、ふぅ……っと鼻先にくゆる。
ロゼルは思わず顔をしかめた。
(何て言うか……この人に、こういう匂いは似合わないな。らしくない)
少女の洞察は知らぬげに、いつもより朗らかな青年が微笑みつつ、声を弾ませる。
「ふふふっ、逃げてきたんですよ。僕はそんなに飲めない。それに、えんえん政治や商売の話、或いは同業者の売り込みばかり。他人事とは思えませんし世知辛くて。
僕は、こうして静かな場所で、可愛らしい教え子のロゼル様と絵の話をしているほうがずっと楽しい」
「あぁそう。……すごいよねお酒って。美術論以外でこんなに饒舌な先生、初めて見た」
「お褒めに預かり光栄です姫君」
「褒めてない。黙れ酔っぱらい」
それは失礼を――と、懲りずに白い歯を見せて笑う青年に、ロゼルはつい苦笑を浮かべた。……呆れたように。
イデアは、今まで自分が接してきた、隔絶した壁の向こうに鎮座して教えだけを垂れてきた“教師”ではない。渇望する道の先で悠々と佇む、生きた先達者だ。
かれの背後にはいつも、先日訪れた学院の美術棟で食い入るほどに眺めた、あの澄みきった大きな森の絵がある。
それは神々しく、手の届かないもの。求めてやまない何か。
――……世俗の享楽とは一線を画するものだと、つよく感じたので。
今、目の前で酒に酔うかれは、いかにも等身大の十八歳の青年。
八歳の自分から見ても何処にでもいる、ただの気の良いお兄さんでしかない。その落差に知らず、がっかりする。
「ところで」
「うん?」
カタ、と無断でスケッチブックを手に取り、じっと見つめていたイデアは、淡々といつもの声のトーンで述べた。
「……悪くないよ。ちゃんと、《彼女》自身を描こうとしている。君だけのまなざしが、絵にちょっとだけ滲んでる」
「……へ?」
開いたままの唇から、らしくない間抜けな返事がこぼれる。
呆然と。
ロゼルは暫し、目の前の青年の穏やかな表情へと視線を凝らした。




