10 いま、届く手の場所
打ちのめされた。それは確かだ。
けれど、教師の絵の、何に打たれたのか―――うまく言葉にできない。
それは自分がまだ子どもだからなのか。
知らないことが多すぎるからなのか。
傍らの、狼狽を露にする銀縁眼鏡の青年を一瞥することなく。
途方に暮れたロゼルは、ぽつりと帰邸を申し出た。
「……取り乱してすみません。充分です、もう――帰ります」
「ロゼ」
「先生のせいじゃない。私にとって、貴方の絵は……遠くて、大きすぎて。悔しいんです。本当に、くやしい」
「……二度も言いましたね」
半ば、呆気にとられたような、穏やかな声。
ぐい、といささか乱暴に頬の涙を拭った。返す腕で反対側も――と、思ったら、ぱしっと大きな手で手首を掴まれた。
「……先生?」
まだ潤む視界で見上げると、たぶん目が合った。何かを逡巡するような、数拍の空白のあと。
なぜか、ぽふっと青年の腹部あたりに顔を押し付けられた。後頭部に手が添えられている。
―――つまり、抱擁されている。
じわ、と当てられた白い綿のシャツに頬と目許の涙が吸われた。
「あの……シャツ、汚してしまったんだけど」
「こういうのは、汚れとは言わないんです。どうぞ、そのまま。もう少し泣いてから帰りましょうか」
「……」
いやだ、と答えるつもりだった。なのに、なぜかまた、じわりと目許に水分が盛り上がった。そのたびに涙は溢れ、より一層目の前のシャツに吸われてゆく。
(くやしい。……くそ、悔しいし届かない。なんだこれ! 絶対追い越せる、負けないって思ってたのに……)
後頭部を撫でる大きな優しい手。
母よりも分厚く、父よりは薄い手のひら。指は、父より細く長い。さんざん観察したから知ってる。
その手が自分に触れていることに、少し不思議さを覚えながら。
ロゼルは、声を圧し殺してしばらく泣いた。
* * *
帰りの馬車に乗る際。
御者から、ちらっと視線を投げ掛けられたイデアは、眉を上げつつスルッと目を逸らした。
「姫君、エスコートしても?」
泣き腫らした目のロゼルに手を差し出すものの、ぷいっとそっぽを向かれる。
何となく、その様子が今までで一番年相応に見えて、青年は目許を綻ばせた。
ロゼルは目敏くそれに気づき、馬車のタラップに足を掛けながら少し、いらっとする。
「よく、この格好の私にそんなことが言えるね」
「そうは仰られても。僕には、貴女はどんな格好でも可愛らしい姫君に映りますよ。むしろ、男装のほうがお似合いかも……っと、失礼」
「……うん。先生が思ったことをそのまま話すひとだというのは、もう知ってる。下手に女装を褒められるより、余程いい」
「じょそ……」
イデアは耐えきれず、手で口許を押さえながら顔を伏せた。
―――感心するほど声は漏れていないが、笑われていることくらいは流石にわかる。
「乗らないなら、置いていくけど」
「!! 乗る! 乗ります、ロゼル様。ちょ、待って御者殿まで?! あぁっ……!」
にこり、と人好きのする笑顔を浮かべたキーラ家の御者に鼻先で扉を閉められ、焦った青年の声が車内のロゼルの耳に届く。
溜飲が下ったな、とくすくす笑った男装の少女は、朗らかな声のまま御者に命じた。
「いいよその人、乗せたげて。かなり無礼だけど無能じゃない。まだまだ、学びたいことはいっぱいある。………目一杯泣かされたけど」
「はっ。……畏まりました」
うちの、大事なお嬢様を泣かせただと? ―――と、氷の視線を受けたイデアが目を泳がせているのを、無邪気なロゼルは知る由もない。
やがて若干疲れた顔の銀縁眼鏡の青年を乗せて、馬車は一路、北へ。
どことなく緩んだ空気のまま、キーラ邸へと戻って行った。




