9 イデアの絵
見渡す限り、なだらかな芝生の丘陵。
サアァァ……という音に合わせ、丈の短い草地にうっすらと風紋が描かれて行く。
梢を揺らす木々は歩行者のための道沿いに。ささやかな白い噴水とすらりとした彫像が幾つか、遠目に見えた。
馬車のため、大きな曲線を描く路の向こうは一群の建物。
赤みがかったオレンジ色の屋根とクリーム色の壁が可愛らしいほっこりとした学舎が、軽快な蹄の音に合わせ、徐々に近づいて来る。
ロゼルは小さく切り取られた車窓からの風景を眺めながら、ふむ……と、ちいさな貴公子のように考え込む仕草をした。
(森の手前には、頑丈そうな石壁と守衛舎があった。ということはもう、ここは学院の敷地内のはず)
――……なのだが、不思議とそうは見えない。
敷物を広げて寝そべる大人達や、際限なく駆け回る子ども達。木陰で語らう老夫妻など、みな実にのびのびと寛いでいる。
控えめに言って普通の公園だ。
「リース先生、一つ訊いても?」
「どうぞ?」
銀縁眼鏡の奥の瞳がいつにも増して柔らかい。なるほど、古巣は居心地が良かったのかなと当たりをつけつつ、幼いロゼルは疑問を口にした。
「ここ、防犯面はどうなってる? 貴重な書架や絵画はもちろん、各国の王候貴族の子女だって寮住まいと聞いた。いくら休息日だからって部外者が入り過ぎなんじゃないかな。――まぁ、私も部外者だけど」
青年は教え子の真剣な瞳を、和んだ眼差しのままでやんわり受け止めた。
ふと目を閉じて、「そうですねぇ……」と一頻り考えたあと、のんびり答え始める。
「貴女の見学に関しては、もう許可を貰っていますから大丈夫。何の手順も踏まずに、このまま入れますよ。あとは……防犯についてですか。
それがねぇ。開校以来ここに不埒者が侵入したことはないらしいですよ」
「ふーん……あ。それってひょっとして、レガートの建国以来、周辺国家でめだった戦争が起きてないことと何か関係してる……?」
「……」
幼い少女からの意外な切り返し。
受けた十八歳は残念ながら、具体的には何も答えられなかった。
理不尽な敗北感とともにほろ苦い笑みが浮かぶ。ちょっと泣きそうだ。
「……多分、ですけど。そういったことも関係するでしょうね……
あぁでも、近衛府から日中は数名、夜間は正騎士隊が一個小隊、交替で守衛舎に常駐してますよ。さすがに学舎は部外者立ち入り禁止ですし。そこは徹底されてます」
「そう。……なら、いい。ありがとう」
ようやく合点が行ったのか、ロゼルは傍目にも明らかなほど表情から力を抜き、安堵の光をゆるりと深緑の双眸に滲ませた。
(―――!)
どき、とするのはこんな時。
予測できない言動や表情。
この子は、一々謎が多すぎる。
『八歳だけど中身は……もう、色々凄いんだ』
―――と。
今は遥か東の地で務めを果たしているだろう、キーラ画伯家当主イヴァンの言葉を今さらながら思い出す。
少し困り顔になった教師が気になったのか、男装の少女は怪訝そうに首を傾げた。
「……先生? なにか?」
「いいえ、なにも。……何でもないですよ。ロゼル様」
何かなんてあってたまるもんか、とは同時に心中で叫んでしまったが。
あり得ない―――と、それを丹念に打ち消したイデアは、にこりと優しく微笑んだ。
* * *
特にすれ違う者もなく、青年と少年姿の少女は東側の大きな学舎・美術棟を歩く。
「卒院制作はね、各自好きなときに始めていいんだけど。僕は卒業年次生の……四学年になってからかな。描き始めた。その頃には、必修単位も全部取得してたし、急にぽっかり、時間ができたんだ」
コツ、コツ……と石の床に、イデアの話し声と二人分の靴音がおだやかに響いている。
長い廊下には等間隔で大きな硝子窓が設けられ、四角く切り取られた光を規則正しく通路へと投げ掛けていた。
……コツン。
やがて行き止まり。
「……で、絵はどこに?」
少年じみたあどけない声に問われ、イデアは、ふっと笑んで右手を軽く掲げるように、やや上方を指し示した。
かれの腕の先には、二階へ昇るための階段があり―――
大きめに造られた踊り場の壁一面。信じられないことに光さす翠の森が広がっていた。
「!!」
ロゼルは目をみひらいて体ごと絵に向き直った。十五、六段は上にある踊り場に掛けられた、わずかに横長の大きな、おおきな絵。
口が半開きになる。
視線を外せない。
―――無言だ。
ことばが出てこない。出すべきではない。
それほどの神聖と静謐だった。
何者も立ち入ったことがないだろう、真っ直ぐに天へと伸びた巨木がうつくしく立ち並び、まるで空間がそこにあるかのように見える。苔むした大樹の根元、萌えいでた春の草花は見るからに柔らかそうだ。
木漏れ日が斜めから射し入り、白く別世界への階のように、葉陰で暗いはずの森をやさしく彩る。
左側に清らかな泉がこんこんと湧いており、そこに乙女が一人、淡く森に溶け込むように描かれている。
飴色に輝く金の髪。遠く、夢見るようにけぶる緑の瞳。側に白い駿馬が控え、乙女を守るように立っている。神話の時代より少しあとのような装束だ。
……なぜかわからないが、見ていると胸がくるしい。悲しさにも似たそれは、今まで感じたことのない圧迫をロゼルの心に強いた。
切なくて、かなしい。くるしいのに嫌じゃない。むしろ――もっともっと、ずぅっと眺めていたい。
「…………」
打たれたように立ちすくむロゼルの傍ら、青年もまた同様に何も言えず、唇を引き結んだ。
――――少女の頬に一筋、涙がこぼれていた。