11話:田嶋好夫の早期退職
すると池添幸夫が6ケ月間の自宅療養と外来通院でも会社への復帰は難しいですかと聞くと田嶋好夫さんは頑健な身体と強靱な精神力があったから死なずにすんだと言い普通の方なら精神的に持ちませんよと言った。逆に我慢したのが良くなかったと言い、また、強いストレスのある仕事に戻るのは自殺行為ですと、きっぱり言った。これからも月に1回の通院と投薬で治療に専念していきますが、くれぐれも無理しないようにと言い睡眠と保温、身体的にも精神的にも安静が一番ですと話した。
体のためには、温泉、南国の暖かい所での転地療法、ストレス解消の音楽、旅行などが良いと言い薬は、あくまでも症状を改善するだけで根本的な治療にはなりませんと告げた。そうして退院してタクシーで家まで行き田嶋好夫の部屋に大型エアコンを入れて快適な温度と湿度を保つように工夫した。自宅に帰り長男の賢人と織絵を見て笑顔になった。そして田嶋好夫が疲れたら寝るし欲しいものがあったら言うので宜しくと絹恵に言った。
すると池添幸夫さんが絹恵を呼んで、お前は2人の子供の育児と好夫君の看病で手一杯だからM物産を退社して彼らに尽くしてやりなさいと告げた。お金の事は、私が何とかするからそうしなさいと優しく言った。それを聞いて、不安いっぱいだった絹恵が泣きながら、わかりました。そうさせていただきますと言った。そして、4月12日、田嶋絹恵がM物産に辞表を提出して、受理され1990年4月付で退社した。
その後、週に2回、子供が幼稚園に行っている間に近くの温泉施設に田嶋好夫を車にのせて行き、温泉に入るようになった。そして、夏が来た、この時期には好夫の血色も良く受け答えもはっきりして調子良さそうだった。やがて涼しい風が吹く9月となった。9月10日の通院の時に担当医に会社への復帰はどうですかと聞くと金銭的に問題なければ自宅療養に励んだ方が良いと伝えた。もし、またストレスにさらされると9ヶ月の治療が無駄となりますよと、きっぱりと言われた。
それを聞いて、わかりましたと絹恵は心決めた。そうして1990年9月30日、に郵送で辞表が送られてきて、田嶋好夫、38歳がハンコをついて、退職することに決まった。その後、夏が過ぎ長男の達人と長女の織絵をドライブに連れて行くようになり箱根の温泉へ連れて行き、4人で家族風呂に入り至福の時をゆっくり過ごした。やがて12月となり長男の達人と長女の織絵にとっては初の盛大なクリスマス・パーティーをして、義理の姉の田嶋美紀さんも駆けつけてくれた。
そして可愛い子供達を抱きあげてキスをしてくれた。あまりに激しい歓迎に子供達は驚いて大声を上げて泣いた。その晩、美紀さんと田嶋好夫さんと3人で遅くまで付き合い始めた頃からの思い出を懐かしく振り返った。また年が明け1990年、今年も初詣でに行き会社の仕事が始まった。自宅では絹恵さんの母・範子さんが子供達を大事に育ててくれた。そして暖かくなり4月には山梨に桜と桃の花を見に田嶋好夫が両親含め6人を車に乗せて出かけて、温泉宿に1泊して帰って来た。