第7話
村まで続く街道から逸れ、馬車は道無き道を進む。
とはいって、歩いても行ける程度の距離なので、フォックスバード邸には特に問題も無く到着した。
馬は車と違い走る場所を選ばず、草むらも臆せずに進む。むしろ問題は荷台の方にあり、木製の車輪が石を踏む度に全員の尻が大きく上下した。
「やあ、おかえり。向こうに着くまで時間はかかったようだけど、それからは早かったね」
珍しくフォックスバードが玄関で3人を迎える。
おそらく件の伝書鳩で連絡を受けていたのだろう。康大は痛む尻をさすりながら、「ええまあ」と曖昧な返事をした。
御者席に座っていた康大に続き、ハイアサースと圭阿も馬車から出てくる。現代人の康大と違い、こういう道には慣れているのか、2人ともけろっとしていた。
「さて、帰ったところ申し訳ないのだが、君達にはまたすぐに出発して欲しい」
「いきなりですね」
「ああいきなりだ。理由についてはマリア女史から聞くといい」
フォックスバードがそう言って扉をノックすると、ダイランドが開けた扉から楚々とした振る舞いでマリアが現れる。この田舎で不自由な暮らしをしていても、初対面の時の気品は全く損なわれていない。そこまで美人ではないのに、気後れしてしまう気高さが彼女にはあった。
「まずは皆様お疲れ様でした」
そう言って深々と頭を下げた。
3人は思わず恐縮した。
彼女の場合、こうして目下の人間にも平然と謝意を表すことで、逆に高貴な人間だと認識させられる。立ち居振る舞いの全てが流れるようで、自分達の粗忽さが浮き彫りになってしまうのだ。
「い、いえ、別にそのような……」
「貴方のようなか弱く美しい女性にまで難儀を与えること、心苦しくてなりません。ですが、それでも押してお願い申し上げます。どうぞ1日も早く先祖の医学書を」
「――何かやむにやまれぬ理由がおありのようですね」
ハイアサースでさえ彼女の焦りは理解出来た。
彼女のように感情がすぐに表に出るからではなく、このような人間が無理難題と分かっていることを押しつけるのが不自然なのだ。
マリアは気まずそうな顔でゆっくりと頷いた。
「もはやここまで頼む以上、黙っているわけにはいきませんね。医学書が必要なのは、今まさに王都におられるとある高貴な方が死の淵にあり、唯一その医学書だけに治す方法が書いてあるからです。その方が誰かまでは言えません。ですが我がインテライト家にとって必要不可欠な方であり、その方の死はそのままインテライト家の没落を意味するでしょう」
「まあ、以前彼女から聞いた話だとまだ余裕があったみたいなんだけど、今日の明け方頃、僕の元に特殊な魔術を使った即時連絡が入ってね。容態が急変したそうだ。ここから王都までの距離を考えるともはや一刻の猶予もない」
「今回もタイムリミット制ですか……」
「ああ。しかも前回よりも切羽詰まってるよ」
余裕を持って事に当たれると思えた康大の目論見は、見事ご破算となった。
ここに来て多少和らいだ疲労が再び重く残しかかる。
康大だけでなく、ハイアサースでさえもまだ疲労が残っている様子だった。唯一一番働いた圭阿だけが元気そのものである。
しかし、これはあくまで人間だけの話。この旅に一番重要な存在が実は最も疲労していた。
「ただ、俺達はいいんですけど、馬がかなりバテてます。ある程度休ませてから出た方が結果的に早いかもしれません」
「なるほど、確かに君の言う通りだ。しかし現状は僕が予想していたよりもさらに悪い。マリア女史に対する借りを返すためにも、僕ももはや手段は選ばないよ。ダイランド!」
「はいっス!」
「予定通り荷物を馬車に放り込んでくれ。それと手の余っている人間は、今馬車に繋がれている馬を外して、我が家の裏の小屋に連れて行って欲しい。できるかな?」
「それは構わないが、馬無しでどうやって馬車を動かすのだ?」
「それは準備が整い次第教えるさ」
ハイアサースの疑問にフォックスバードはそう答えるだけだった。
その場にいる誰1人釈然としない返事であったが、なにせ発言者はフォックスバードである。皆わき上がる疑問に蓋をし、言われた通りの行動を取った。
馬の誘導は扱いに慣れてきた康大が務め、野菜で誘導しながら裏にある小屋の中に連れて行った。元は食材置き場だったのだろうか、拾い小屋の片隅には野菜が詰まれ、馬達は入ると同時に倉庫内を食い散らかし始める。
(大丈夫かなあ……)
言われたこととはいえ、康大は不安になってきた。
「おそらく長旅になると踏んで、多めに備えておいた食材を処分しようと思ったのでござろう」
様子を見に来たのであろう、圭阿が康大の不安に答えた。
「それならいいんだけど……。ところでそっちの準備は?」
「拙者の場合どこに行くにも現地調達が基本でござる。それよりかれーの件、だいらんど殿に相談した頃、よく分からないという答えが。そこで是非また康大殿に作って頂きたく……」
「残念ながら2つ問題がある。1つはそんな時間今は無い。もう1つは言うのが少し遅かった」
「その材料まで馬に食われてしまったわけでござるか……」
圭阿はガックリ肩を落とした。
「拙者、とことんかれーと縁が無いようでござる……。ところで、康大殿はこの後荷物の用意を?」
「いや、そもそも今回の旅の準備をそのまま使って充分そうだし、フォックスバードさんの本が……」
「あれはとんでもないでござるな」
以前フォックスバードは自分の本を納めるためにも、この旅に付き合うと言った。その時は康大も圭阿も、せいぜい1,2冊重要な本を持っていくものとばかり思っていた。だが、最初にダイランドが運んだ分だけですでに20冊はくだらない。それから康大はすぐに馬の誘導をしたが、あの様子だと何往復かしているだろう。
「拙者が最後に見た時は軽く100冊を超えておりました」
「うわ……」
ここまで行くと馬が引けるのかという問題を通り越し、荷台が持つかという構造上の問題にまで発展する。
そして最終的にどれだけ積み込んだかというと――。
「これぐらいが限界かな」
文字通りの汗牛充棟状態になった荷台を前に、フォックスバードは満足そうな顔をする。
おそらく200冊程度は積み込んだだろう。荷台はミシミシと言い、もはや人間が馬車内で寝る場所は完全に失われていた。このままでは荷物も置くのではなく、乗っている人間が背負わなければならないかもしれない。ただでさえ心身共に厳しい旅だというのに、この時点でより厳しくなることが確定した。
「いやこれ、確実に限界を通り越しているだろ……」
今まで家に入っていたハイアサースが、荷台の惨状を見て呆れながら言った。
その手には白いパンが握られ、まず何より食欲を満たすことを優先させていたことは明らかだ。実際、街を出てからろくなもの……どころか何も食べていない。康大は疲労から食欲などほぼなかったが、ハイアサースはすぐに疲労を食事で補うことが出来た。
「ふふ、確かにこのままなら馬車は一歩も進むことは出来ないだろう。しかしよく考えてみたまえ。そもそも僕がどうやってここに引っ越してきたかを」
「どうやってって……普通に大勢の人を使ったんじゃないんですか?」
圭阿と共に戻ってきた康大が常識的に答える。その常識はこの世界でも通用するようで、ハイアサースも圭阿もそれに同意した。
しかし、3人とも未だに理解していなかった。
フォックスバードの常識は、この世界において康大の常識以上に非常識であることを。
「残念ながら途中で拾ったダイランドを除き、ここには僕1人できたんだよ。荷物はこうやってね!」
フォックスバードはそう言って指を鳴らす。するとその数秒後には、あれほどあった本が跡形もなく消え去っていた。
――いや、そうではない。
「小さくなった!?」
ハイアサースが驚いた通り、本の大きさが十分の一程度まで縮んでいたのだ。
試しに康大とハイアサースが小さくなった本を持ってみると、重さまで見た目通りの軽さになっていた。幻などではなく、本当に質量ごと小さくしたのだ。
「とんでもない人だと思ってましたけど、何かもう恐怖すら覚えますね。※ラヴォアジエがあの世で血反吐吐いてますよ。もうフォックスバードさん1人でなんでもできるんじゃないですか?」
「もしそうだとしたら、僕がマリア女史に借りを作ることも、ここに引っ越すこともなかっただろうね。所詮僕はただの世捨て人さ」
(隠遁した魔王ぐらいの感じがするけどなあ)
康大には過小評価にしか思えなかった。
「あの、師匠。そんな魔法が使えるなら、何で俺が本を運ぶ前に使ってくれなかったんスか……」
「さて、次は馬だね」
ダイランドの恨み言をフォックスバードは完全に無視した。ちなみに、嫌がらせでしたのではなく、荷台に入らないと魔法が使えないという正当な理由があった。ただ、いちいち言ってやる義理も無いので黙殺していた。
「普通の馬だと、夜通しで走ることは無理だ。あの方がどこまで持つか分からないけど、おそらく間に合わないだろう。そこで馬の変わりを使う」
「変わりの馬じゃないんですか?」
「ま、そこは仕上げをご覧じろってね」
康大の疑問にフォックスバードはそう答え、地面にそこらに落ちていた木の枝で魔方陣を描き始めた。
それはかなり複雑な紋様でまた大きく、現実世界なら製図用道具を使わなければ描けないようなものだった。実際、全てを描き終えるまで、フォックスバードでさえもかなりの時間がかかった。
部外者には全く意味が分からない魔方陣を描き上げると、フォックスバードは厳かに呪文を唱え始める。
その呪文は珍しく康大にも意味が分かる言葉が使われていた。
「黒よ、犬よ、血よ、冥府に惑いし魂を司る酷吏よ、我が鉄の命脈に答え、今ここに印を示せ。弾指の逢瀬にその名を碑によって認めよ」
ただしその内容はさっぱり理解できない。
呪文を唱え終えるとフォックスバードは魔方陣に何かを撒く。
康大にはよく見えなかったが、それはフォックスバード自身の血であった。
それから数秒後、魔方陣から石油のような泥が溢れてくる。その中から1匹……というより1頭と言った方が相応しいような犬が這い出してきた。
犬は片足を泥から突き出し、頭を――。
「頭が3つある!? まさかケルベロスか!」
「ご名答、よく知っているね」
魔方陣から現れたのは3つの頭を持つギリシャ神話の地獄の番犬ケルベロスであった。
そもそもギリシャが存在しないであろうこの世界に、神話が存在しているとも思えないが、いちおう名前は同じらしい。
ただ根本的な問題として。
(馬ですらない……)
荷台を引くのにはかなりの不安がある。
そう思ったのは康大だけでなく、ハイアサースも「犬では……」と懐疑的だった。ただその後、「まあ頭が3つあるから2頭分以上に働いてくれるかも」とよく分からない理論で納得していたが。
「君達は不安に思っているようだが、このケルベロスはこれで意外に優秀なのさ。さあ乗ってくれ。取り付けは僕がしよう」
フォックスバードは追い立てるように3人を荷台に入れる。
それから自らは御者席に座り、手綱を振るうことなく「行け」と口頭で命令した。
するとケルベロスは、馬とは比較にならないほどの速さで荷台を引き走り出す。それにも拘わらず、振動は馬の時と比較にならないほど安定していた。
これはケルベロスが気を使ったわけではなく、フォックスバードの荷台に施した魔法によるものだった。ただ、フォックスバードにはそれを自慢する気も無いので、また黙っていた。
「とんでもなく速いでござるな!」
「ああ、この分だと帰りに使った時間ほどで目的地に到着するかも。……どこに行くか知らないけど」
「なんだこの気持ちは……、というか気持ち悪い……吐きそう……」
三者三様の旅人と1人の強すぎる自称世捨て人を乗せ、馬車は一路館を目指す。
留守番組のマリアとダイランドには数秒でその姿は見えなくなったが、2人並んで、しばらく間その場で見送っていた。
「不思議ですね、困難な任務であるのに彼らに任せると全く不安がありません」
「俺はむしろ自分の身体が心配っス……」
「・・・・・・」
馬車にゆられてからまだ10分も経っていない頃。
あまりに快適な旅と今までの疲労から、康大は襲いかかる睡魔に抗しきれずにいた。
気付けば目を閉じ、熟睡まであと一歩のところまで追い詰められる。
しかしその最後の一歩を迷惑すぎる女神が許さなかった。
《人の子よ。最近スルーされすぎている気がするので、私から会いに来ましたよ……》
「・・・・・・」
《……起きろ!》
「へべら!?」
ミーレが無防備な康大の頰に張り手を喰らわす。
康大がミレーに干渉できるよう、ミーレもまた康大に干渉できるようだった。
かつて直接的な干渉はしないと言っていたが、それは嘘だったらしい。
「何すんだよこの派遣女神!」
《人の子よ、しばらくの間、終業時間間際で余計な仕事を押しつけられたくない私の相手をするのです。それが貴方に課せられた使命です》
「身も蓋もなさすぎる……」
康大は当てつけ半分でため息を吐いた。
《今まで見たところによると、貴方はこれから典型的な洋館に向かい、脱出ゲームをするようですね》
「しねえよ! 洋館かどうかも分からないし、脱出するんじゃなくて本を取りに行くだけだ。まあ結果的にそうなる可能性大だけど……」
《つまりそのために私のアドバイスが必要というわけですね》
「いらん」
康大は断言した。
今はこの※ビニールに入ってる食パンを止めるやつよりも役に立たない女神を無視して、早く寝たかった。
しかし仕事を極力さぼりたい女神はそれを許さない。
《それでは1つ……では時間が余りますので、17個ほど良いアドバイスをしてあげましょう。まず1番大事なポイントは棚の裏です。壁と棚の境界線を連打すれば、まずアイテムの見落としは少なくなるでしょう。私はこういうのは詳しいのです。仕事の合間にフリーゲームを見つけては見事脱出していましたから。また数字を使ったパズルは最悪総当たりで問題ありません。それから……》
「・・・・・・」
調子に乗り始めたミーレの声が次第に遠くなり、康大はようやく予定通りの睡眠に入っていく。
そして彼が女神という名の隣人トラブルに負けず再び目を覚ました時、日はすっかり登り、ケルベロスもどこかへ消えていた……。
※質量保存の法則の基礎を作ったと言われるフランスの科学者。実は康大はかなり偏差値の高い高校に通っているのだが、この話には一切関係が無いので割愛
※バッグ・クロージャー。誰もが見たことはあるけど名前は知らない四天王の1人。